有島武郎 『カインの末裔』

 『カインの末裔』 は大正6年に発表された短編小説。
 貧しい小作農の仁衛門(にんえもん)は自分の飼っている馬に乗り、競馬に出場する。ところが、競技中の事故により、馬は前脚を二本とも骨折してしまう。

 金を喰う機械――それに違いなかった。仁右衛門は不愍(ふびん)さから今まで馬を生かして置いたのを後悔した。彼れは雪の中に馬を引張り出した。老いぼれたようになった馬はなつかしげに主人の手に鼻先きを持って行った。仁右衛門は右手に隠して持っていた斧で眉間を喰らわそうと思っていたが、どうしてもそれが出来なかった。彼れはまた馬を牽(ひ)いて小屋に帰った。


 有島武郎カインの末裔』 七

 北海道の開拓地での極貧の生活。そこに生きる仁衛門は、暴力、セックス、酒、博打とあらゆる罪業の淵に沈んでいる。しかし彼は、上に引用した馬を殺そうとして躊躇う場面をきっかけに彼は変貌していく。(最後は結局殺してしまうのだけど。)
 粗暴な人物の粗野な行動を描いた作品だが、文章は緻密であり、完璧な構成をもっている。登場人物の配置も巧みで、馬さえ重要な役割を担っている。主人公は吐気を催すほどひどい男だが、読み終わったとき、彼に共感してしまうのは、作者の思う壺なのだろうか。

「……要するに、カインはすてきなやつだった、とぼくは思うんだ。ただみんなが彼を恐れていたので、ああいう話を彼にくっつけたのさ。」


 ヘルマン・ヘッセデミアン』 第二章 カイン (高橋健二訳)

 有島より一歳上のヘッセが 『デミアン』 を書いたのは、『カインの末裔』 の2年後、1919年のことである。
 有島と同じく長男の僕は、カインに共感する。この小説のような発想は、おそらく漱石、藤村等の末っ子作家にはないのではないかと思う。(ヘッセは一人っ子だっけ?)そういえば、藤村の短編 『藁草履』 も、主人公が競馬に出場したり妻に暴力をふるったりする話だったが、結末は正反対であった。


カインの末裔/クララの出家 (岩波文庫 緑 36-4)

カインの末裔/クララの出家 (岩波文庫 緑 36-4)