村上春樹とワタナベ・ノボル

 ワタナベ・ノボル
 お前はどこにいるのだ?
 ねじまき鳥はお前のねじを
 巻かなかったのか?


 村上春樹 『ねじまき鳥と火曜日の女たち』

 村上春樹の小説には、渡辺昇=ワタナベ・ノボルという名前がよく出てくる。よく出てくる割に、その実体がよくわからないのがワタナベ・ノボルである。ワタナベ・ノボルは登場人物の名前、というよりも登場しない人物の名前として扱われることが多い。例えば、短編集 『パン屋再襲撃』 には以下のワタナベ・ノボルが登場する(あるいは、登場しない)。
 『象の消滅』 では、動物園から象とともにいなくなった飼育係が渡辺昇だった(彼の名前がわかったのは、彼がいなくなったあとのことである)。
 『ねじまき鳥と火曜日の女たち』 では、いなくなった猫の名前がワタナベ・ノボルだった(猫の名前の由来となった 《僕》 の妻の兄も作中には登場しない)。*1
 『ファミリー・アフェア』 では、《僕》 の妹の婚約者の名前が渡辺昇で、彼だけは作中に登場するのだが、《僕》 とは性格もライフ・スタイルも正反対の、どちらかといえばネガティブな存在として描かれている。
 これらの作品世界は、ワタナベ・ノボルが不在の世界、あるいは存在するけれどもネガティブな存在でしかない世界をあらわしている。ワタナベ・ノボルとは何か? という問いに答えはないのかもしれないけれども、小説の主人公たちはワタナベ・ノボルが存在しなくてもちっとも困らないという点で共通する。また、困らない割に執着している点でも共通している。
 一方、阪神大震災の後で書かれた短編集 『神の子どもたちはみな踊る』 には、ワタナベ・ノボル的なものは登場しない。この作品集の登場人物たちは全て大切な人、大切なものを失うという共通体験を経ている。彼らは、《いなくなってもいいようなもの(人)など、この世にはないのだ》 と訴えかけているようだ。
 阪神大震災オウム事件、9・11。これら未曾有の災害や事件は、僕たちの世界に対する物の見方、関わり方を大きく変えた。僕たちが今生きているこの世界には、ワタナベ・ノボルは存在しない。あるいは、ワタナベ・ノボルが近くにいたとしても、我々は彼を受け入れることができる――といったようなメッセージを、これらの作品から僕は感じ取るのである。


パン屋再襲撃 (文春文庫)

パン屋再襲撃 (文春文庫)

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

「象の消滅」 短篇選集 1980-1991

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

*1:のちの長編小説 『ねじまき鳥クロニクル』 では、パワーアップした綿谷ノボルが登場する。