サン=テグジュペリ 『夜間飛行』

 妻は夫を眺めた。自分の手で、夫の武装を隙なく仕上げる。万全に整った。
「すごくきれい」
 そして彼女は気づいた。夫の髪がていねいに整えられている。
「それ、星に見てもらうため?」
「老けた気分にならないため」
「嫉妬するなあ……」


 サン=テグジュペリ 『夜間飛行』 10章 (二木麻里訳)

 パイロットは妻よりも空を飛ぶことを選ぶ。これは自明の選択なのである。
 中小企業の社長のおっさんみたいな民間郵便飛行会社の経営者リヴィエールは、地上勤務者の代表として、作中苦渋の選択を迫られるのだが、パイロットには選択の余地はない。ただ 「飛ぶ」 のみなのだ。
 この小説は、一機の郵便飛行機が暴風雨のため行方不明になるというストーリーで、全体としては悲劇のはずなのだが、読み終わってちっとも悲しい気持ちにならないのは、登場するパイロットたちの勇敢かつ楽観的な性格のためなのだろう。
 本作には四人のパイロットが登場する。上に引用したのはそのうちの一人だが、彼は名前すら与えられないただの 《欧州便のパイロット》 である。前半の10章に家から出かける場面で登場し、あと最後のほうにちょっと出てくるだけなのだが、この再登場場面がめちゃめちゃにかっこいい。


 『夜間飛行』 は1931年に発表された小説。実際に職業操縦士であったサン=テグジュペリの経験と理想が抑制のきいた文章に詰め込まれた名作である。
 飛行機が好きな人以外には、本作を勧めない。飛行機に乗ること、空を飛ぶことが好きな人には必読の一冊だと思う。


夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

 2010年に刊行された新訳版。冒頭に当時の複葉機の写真が載っている。
 読みやすく、最初から最後までわくわくする。電車の中で読んで、涙があふれてきて、恥ずかしかった。