永井荷風 『つゆのあとさき』

 銀座のカフェーで女給をしている君江は、男性客と片っ端から関係している。

……十七の秋家を出て東京に来てから、この四年間に肌をふれた男の数は何人だか知れないほどであるが、君江は今以って小説などで見るような恋愛を要求したことがない。従って嫉妬という感情をもまだ経験した事がないのである。君江は一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛藤を生じたり、または金を貰ったために束縛を受けたりするよりも、むしろ相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣(ほしいまま)にした方が後くされがなくて好(い)いと思っている。


 永井荷風 『つゆのあとさき』 七

 その場かぎりの男女関係のつもりであっても、相手も同じことを望んでいるとは限らない。果たして、男たちの独占欲や嫉妬は様々な軋轢を生み、嫌がらせや暴力へと発展していく。
 『つゆのあとさき』 は昭和6年に発表された小説。140ページほどの中編だが、残り20ページくらいのところで突然事件が起こったり、最後10ページのところで新たに登場した人物においしいところを全部持って行かれたりと、ストーリーは滅茶苦茶なものである。登場する男たちの身勝手な嫉妬や憎悪が、それぞれの視点から描かれているが、主人公君江のあっけらかんとした、ブレない生き方は(まったく共感できないにもかかわらず)男たちのそれを遙かに超越していて、潔ささえ感じさせる。
 銀座のカフェー、牛込や市ヶ谷の街並み、待合、円タクといった昭和初期の風俗が細かく書かれており(待合で朝まで過ごし、窓を開けると隣家に洗濯物が干してあったりする)、ごみごみした東京の、蒸し暑い季節が生き生きと描かれた作品だと思う。


つゆのあとさき (岩波文庫 緑 41-4)

つゆのあとさき (岩波文庫 緑 41-4)