石原千秋 『名作の書き出し 漱石から春樹まで』

名作の書き出し 漱石から春樹まで (光文社新書)

名作の書き出し 漱石から春樹まで (光文社新書)

「テクスト論」 の入門書

 小説を読むとき、僕は基本的に「作者」を無視する。これは「テクスト論」という立場である。「テクスト論」は、小説を読むときにどんな方法でも用いるし、歴史的なデータも用いるが、「作者」だけには言及しないのである。
 たとえば、夏目漱石の小説には遺産相続に関わるテーマが多く書かれているが、これを説明しようとして「作者」を読みの枠組みに組み入れると、「漱石は幼いときに家において不幸な体験をしていたからだ」ということになる。これはどこもまちがってはいないのだが、この説明の仕方では、小説の読み方になにも付け加えることができない。「漱石の不幸」に行き着いて終わりである。


 石原千秋 『名作の書き出し 漱石から春樹まで』 まえがき

 本書は、日本近代文学の 「名作」 と呼ばれる小説を、「テクスト論」 という立場から論じたものである。取り上げられる作品は、夏目漱石 『それから』 から、村上春樹スプートニクの恋人』 まで15編。日本近代文学が好きな人なら、おなじみの小説ばかりだ。また、各作品の 「書き出し」 を引用した上で、論を進めるのが本書の特徴だが、「名作の書き出しは名文だ」 というようなよくある名文集ではなく、小説の冒頭の数行から作品全体を読み解く手がかりを得ようとしている。
 小説の読み方として、面白い読み方だとは思う。しかし、極端である。
 「テクスト論」 に正対する立場として、《「作者」 に言及する》 というものがある。日本近代文学の代表的な作品には、実在の人物、実際に起った事件をモデルとして書かれたもの、作者自身のことが書かれたもの(私小説)が多い。人物、事件、作者といった背景を知らなければ、小説を理解することは不可能とする立場である。このような小説の読み方を、小谷野敦は 「モデル読み」 と呼んでいる。(第1講 文学とは何か - 蟹亭奇譚 参照。)僕のような一般の読者の多くは、この両者の中間のどこかに位置しているのではないかと思う。

『それから』 を読む

 石原の読み方は面白いとは思うのだが、それ違うんじゃないの? と思ってしまう処も少なくない。例えば、彼は 『それから』 をどう読んでいるのだろうか。

 たとえば、多くの読者はこの『それから』を、「代助と三千代の道ならぬ恋の物語」と読んできたのではないだろうか。それはまちがいではないけれども、『それから』にしまい込まれている物語はそれだけではない。『それから』は少なくとも二つの物語が組み合わせられて、一つの小説になったものだからである。


 石原千秋 『名作の書き出し 漱石から春樹まで』 第一章 花になりたかった女――夏目漱石『それから』
強調部は原文では傍点。

 一つは、代助と三千代との物語で、もう一つは代助と実家との物語である。


 (同上)

 ここまでは全くそのとおりであり、間違ってはいない。しかし、次の箇所についての読解はどうだろう。

 代助と実家との物語は、実は「代助が実家から捨てられる物語」だったのである。


 (同上)

 『それから』 の結末近くに、実業家である父と兄に勘当される場面がある。父に勧められた政略結婚を断り、三千代との関係がばれて勘当されるという話なのだが、ではなぜ代助は(三千代との間柄がプラトニックな恋愛関係であったにもかかわらず)勘当されなければならなかったのか。
 石原は、代助の父が隠居したら、兄が弟の扶養の義務を負うことになるから、そういう事態を避けるために早く結婚させたかったのだと述べている。建前としては、そういう理屈も成り立つだろう。しかし、父と兄の本音は別のところにあるのではないか。

……兄は封筒の中から、手紙を取り出した。それを四五寸ばかり捲り返して、
「実は平岡という人が、こう云う手紙を御父さんの所へ宛て寄こしたんだがね。――読んでみるか」と云って、代助に渡した。


 夏目漱石 『それから』 十七

 代助の父と兄が経営する会社は日露戦争後の不景気のため、傾きかけている。そして彼らはある疑獄事件に関わっているらしいことが本作の中ほどで、兄自身の口から仄めかされている。一方、二人の関係を手紙に書いて、代助の父に送ったのは三千代の夫平岡だが、彼は新聞社の経済部主任記者である。平岡が金銭を要求したかどうか定かではないが、これはどう考えても、脅しをかけているとしか思えないだろう。つまり、代助の勘当もまた、事件を闇に葬ろうとするため、政略的に仕組まれたものだったのである。

 むきになって反論してしまったが、テクストの詳細にこだわるあまり、他のテクストを読み落としてしまうこともあるのではないかということだ。もちろん、僕の反論も 「テクスト論」 に則っているつもりである。ちゃんと読めば、この小説に書かれた本音と建前の違いがわかるだろうと思うのだが、いかがであろうか。

「名作」とは何か

 花袋といえば、何といっても『蒲団』である。(中略)『蒲団』を悪く言う男がいたら、それは間違いなく、女にもてる男である。ここでも、普遍的基準は存在しないし、しえない。私はもちろん、日本近代文学中最高傑作だと思う。


 小谷野敦 『『こころ』は本当に名作か 正直者の名作案内』 第二章 日本人必読の名作たち

……しかし、たとえば田山花袋の『蒲団』は時代を超えて読み継がれているが、『蒲団』を「名作」だという人はそれほど多くはないだろう。だから、これも確実な指標にはならない。



 石原千秋 『名作の書き出し 漱石から春樹まで』 あとがき

 小谷野と石原という、両極端に位置する(と思われる)文学研究者が、《「名作」とは何か》 というテーマについて論じているのだが、どちらも 「普遍的基準は存在しないし、しえない」、「確実な指標にはならない」 と似たような結論にたどり着いているのが面白い。こういう議論はどんどん行われるべきだと思う。
 『名作の書き出し 漱石から春樹まで』 を、僕は面白い本だと思った。しかし、あくまでも読み物として、である。


<付記>
 文中、敬称を略しました。僕は猫猫塾の元塾生であり、ふだんは小谷野先生、猫猫先生などと呼んでいるのですが、本記事ではあくまでも先生の著書を一読者の立場から(ちょっとだけ)取り上げるつもりであったためです。

『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)

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