手のひらをながめる

 岸本捨吉は、二人の子供と節子の世話を次兄義雄に頼んで、ひとりフランスへ旅立つ準備をすすめる。彼は義雄に対して、節子のことを言い出せず、顔向けもできないまま、兄夫婦の上京を待たずにわざわざ神戸発の船を選んで出発しようとしていた。
 しかし、突然、義雄が神戸の旅館を訪れるのである。

「……おれも名古屋から出かけて行ってね。すっかり郷里(くに)のほうの家を片付けて来た。『捨様(すてさま)も外国のほうへ行かっせるッて――子供を置いて、よくそれでも思い切って出かける気にならッせいものだ』なんて、田舎の者が言うから、人間はそれくらいの勇気がなけりゃだめだッておれがそう言ってやった。」
 義雄は相変わらずの元気な調子で話した。次第に岸本の頭は下がって行った。彼は兄の言うことを聞きながら自分の手のひらをながめていた。


 島崎藤村 『新生 前編』 第一部 四十七
強調部引用者。

 兄の口から郷里の話が出た途端、捨吉は自分の手のひらをながめる。なにげない描写だが、藤村の小説の主人公は何度もこの仕草を行っている。

「貴方」とお種は夫の方を見て、「ちょっとまあ見てやって下さい。三吉がそこへ来て坐った様子は、どうしても父親(おとっ)さんですよ……手付(てつき)なぞは兄弟中で彼(あれ)が一番克(よ)く似てますよ」
「阿爺(おやじ)もこんな不恰好(ぶかっこう)な手でしたかね」と三吉は笑いながら自分の手を眺める


 島崎藤村 『家 (上巻)』 一

 私は子供らに出して見せた足をしまって、何げなく自分の手のひらをながめた。いつでも自分の手のひらを見ていると、自分の顔を見るような気のするのが私の癖だ。
(中略)
 私はもう一度、自分の手を裏返しにして、鏡でも見るようにつくづくと見た。
「自分の手のひらはまだ紅(あか)い。」
 と、ひとり思い直した。


 島崎藤村 『嵐』

 《手のひらをながめる》 という行為は、自分自身を見つめると同時に、少年時代に亡くなった父親を思い出す仕草なのである。 いずれも、印象的な場面であり、ひとつの仕草がそのまま主人公の心理描写へとつながっていることに注目したい。
 また、作者の父親をモデルとした 『夜明け前』 にはずばり主人公半蔵の 《手》 が描かれている。

……半蔵ももはや以前のような総髪を捨てて髪も短かめに、さっぱりと刈っている人である。(中略)その骨格のたくましいところは先代吉左衛門に似て、膝の上に置いた手なぞの大きいことは、対坐(たいざ)するたびに勝重の心を打つ。


 島崎藤村 『夜明け前 第二部』 第十四章 一

 これが主人公の姉の場合は、鏡を見ると亡父を思い出す、という描写になっていて、『家』 や 『ある女の生涯』 では重要な場面で用いられている。(お種 - 蟹亭奇譚参照。)
 どちらも共通して、亡き父――暗い淫蕩の血が流れ、狂死した父――を思い起こすきっかけとして描かれる行動なのだろうと思う。