芥川龍之介 『玄鶴山房』

 『玄鶴山房』 は昭和2年に発表された短編小説。
 一代にして財を築いた堀越玄鶴老人とその妻、一人娘と婿夫婦、幼い孫の武夫、住み込みの女中と看護婦。肺結核のため玄鶴が離れに一人寝ているその家へ、元女中で玄鶴の妾であるお芳が幼子を連れてやってくる。

 お芳が泊りこむようになってから、一家の空気は目に見えて険悪になるばかりだった。……


 芥川龍之介 『玄鶴山房』 四

 これだけでも十分陰鬱な話なのに、さらに拍車をかけるのが看護婦甲野である。彼女の悪意は、家族の間に嫉妬と憎悪を呼び起こす。まったくひどい話である。わずか20数ページの作品なのに、これでもかというくらい暗澹としたエピソードが続いている。しかし、再読すると、登場人物の構成と配置が実に見事で、完成された小説だということがわかる。
 ところで、最後の章の玄鶴の葬儀の場面に、娘婿重吉の従弟の大学生が登場する。台詞も少なく、ほとんどストーリーに影響しない人物なのだが、彼が登場することによって視点がくるっと変わり、家庭内の悲劇を客観化・相対化させている点に注目したい。このような結末の手法は、『戯作三昧』(大正6年) や 『舞踏会』(大正9年) にも用いられているものだ。さらに遡れば、樋口一葉の小説も、同じように 《最後のほうに登場して客観的な視点を与える人(物)》 が頻出していた。 『十三夜』 における 《月》、『ゆく雲』 における 《観音様》、『たけくらべ』 における 《美登利の母》 などがそれにあたるものである。この手法は、いつ頃から用いられたものなのだろうか?(西洋文学にありそうだが。)また、この手法には名前がつけられているのだろうか?


河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

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 あまりにも暗い話なので、『玄鶴山房』 を読み終わった後は、『蜜柑』 あたりを読んで毒消しすることにしたい。