『邪宗門』と新聞連載小説
『邪宗門』について
従って、純文学は元から、半年というような長編の予定ではなかったのであり、「邪宗門」も、長編が予定されていたのではなく、30回くらいで頼んだのが、終わらずに中絶した、と考えるべきであろう。
猫猫先生に呼び出されたわけですが、なるほど連載30回で完結できなかったため、32回で中絶した、というような事情があったわけですね。新聞社の都合だとしたら、それはそのとおりかもしれません。が、しかし、ストーリー自体は9割方終結に向かっていて、いよいよラスボス登場! という場面で終わったまま、というのは不自然すぎると思うのです。新聞連載が打ち切りになったとしても、他の文学雑誌に一挙掲載とか、単行本化の際に完結編を加えるとか、作品を完成させることは可能だったはずで、それを敢えて行わなかったのは、芥川が自分の考えた結末に不満があったからとしか考えられないのです。
新潮文庫の巻末解説(吉田精一)には 「あまりにも空想が拡がりすぎて、収束に困ったためと思われる。」 と記されていますが、この説も納得のいくものではありません。物語はすでに収束に向かっているからです。
- 若殿様は 「唯今でも」(六を参照)生き残っている。
- 摩利信乃法師は首を切られて死ぬ。
- 中御門の御姫様も死ぬ。
これが常識的に考えられる結末です。1. は確実、2. は洗礼者ヨハネ説、3. はワイルド模倣説です。芥川のことですから多少ひねった結末を用意していたかもしれませんが、これらをアレンジした結末以外はありえないでしょう。これらの縛りから全く逸脱して延々と話を続けるとしたら、『邪宗門』 はもはや別の小説になってしまいます。
島崎藤村の新聞連載小説について
島崎藤村が新聞に連載した長編小説は三つあります。
- 『春』(明治41年4〜8月)東京朝日新聞
- 『春』 の執筆開始が遅れたため、同年1〜3月には夏目漱石の 『坑夫』 が掲載された。
- 『家 (上巻)』 (明治43年1〜5月) 讀賣新聞
- 『新生』(第一部:大正7年5〜10月、第二部:大正8年8〜10月) 朝日新聞*1
ほかにもフランス滞在中の随筆などが朝日に連載されていたようです。一方、讀賣に起用されたのは1回のみ。しかも途中までです。一体どういう契約になっていたのでしょうか?
*1:島崎蓊助編 「年譜」 によると 「東京」がついていない。