サン=テグジュペリ 『星の王子さま』(河野万里子訳)

サン=テグジュペリ 『星の王子さま』(内藤濯訳) - 蟹亭奇譚
サン=テグジュペリ 『星の王子さま』(池澤夏樹訳) - 蟹亭奇譚
に続いて、3冊目。

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 新訳ラッシュから少し遅れて、2006年に刊行された新潮文庫版はカバーが金色の縁取り、中味も厚手の紙が用いられたプチ豪華本(その代わり日焼けしやすい)。今回は再読である。
 河野訳も簡潔で読みやすいが、池澤訳にくらべて文章の調子が全体にやわらかな感じがする。ちょっとしたフレーズを引用しようと思ったら、この訳が一番良いのではないかと思う。


 さて、河野の解釈には決定的な違いがある。それは黄色いヘビが登場する場面だ。(強調部は引用者による。)

 王子さまは、長いあいだヘビをじっと見つめた。
「きみって変わった動物だね」しばらくして王子さまは言った。「指みたいに細くて……」
「でも、王さまの指より強い」ヘビが言った。
 王子さまは、ほほえんだ。
「そんなに強くないでしょ……足もないし……旅もできないじゃない……」
「大型船で運ぶよりもっと遠くに、きみを連れていけるぜ」ヘビは言った。
 そうして金のブレスレットのように、王子さまの足首にからみついた。
おれは、触れた者をみな、元いた土に帰してやる。でもきみは汚(けが)れていないし、星から来たから……」
 王子さまは、なにも答えなかった。
「かわいそうになあ、こんなにか弱いきみが、冷たい岩だらけの地球に来て。いつか、もし故郷の星にどうしても帰りたくなったら、おれが力を貸そう。おれが……」


 サン=テグジュペリ星の王子さま』 17 (河野万里子訳)

 生き物が死んで 「土に帰る」 という言い回しは古くからあり、聖書にも何度か出てくる。

ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。


 伝道の書 第12章7 (口語訳聖書)

 同じ箇所のヘビのセリフを他の訳と比較してみよう。

おれがさわったやつぁ、そいつが出てきた地面にもどしてやるんだ。だけど、あんたは、むじゃきな人で、おまけに、星からやってきたんだから……」


 サン=テグジュペリ星の王子さま』 17 (内藤濯訳)

私が触れば、誰でも自分が出て来た土地に送り返される」とヘビは言った。「だけどきみは純粋だし、それに遠い星から来たから……」


 サン=テグジュペリ星の王子さま』 XVII (池澤夏樹訳)

 いずれも謎めいたセリフだが、「土に帰してやる」 とヘビが死を暗示しつつ、自らの毒で他者を殺す力を持っていることを言い表わしているのは、河野訳だけである。だが、王子さまはまだこの言葉の意味に気づかない。毒について王子さまが知るのは、26章でヘビと再会したときのことだ。
 ヘビに噛まれることによって、肉体は死に、精神(霊)は星へ帰る。王子さまが星へ帰るのは、バラの花と再会し、責任を果たすためである。王子さまの死は自己犠牲のためだった――、というのが河野訳でははっきりと示されている。内藤訳ではこういうところが曖昧すぎて、何度読んでもよくわからなかったのだが、こちらはわかりやすいし、上に引用した聖書の一節とも符合している。(創世記のアダムも土から造り出されたこと、アダムとイブに禁断の果実を食べさせたのもヘビであったことを思い出してみよう。)
 しかし、結末の27章で、事態はひっくり返される。

 今では少し、悲しみはやわらいだ。つまり……消えたわけではないということだ。でも僕は、王子さまが自分の星に帰っていったことを、ちゃんと知っている。あのあくる朝、夜が明けてみると、王子さまのからだはどこにもなかったのだから。あまり重いからだではなかったし……そうして僕は、夜、星々の笑い声に耳をすますのが、好きになった。ほんとうに、五億もの鈴が、鳴り響いているようだ……


 サン=テグジュペリ星の王子さま』 27 (河野万里子訳)

 王子さまの体は地上に残されたのではなく、土に帰ったわけでもない。ちゃんと自分の星に帰ったのだ。もちろん、これは 《僕》 の想像である。《僕》 の元には、これらの記憶以外何も残されていないのだから。
 はたして、あなたは 《僕》 の話を信じるだろうか?

「いちばんたいせつなことは、目に見えない」忘れないでいるために、王子さまはくり返した。


 サン=テグジュペリ星の王子さま』 21 (河野万里子訳)

 『星の王子さま』 は僕にとって、こういう物語なのである。