芥川龍之介 『歯車』

……僕はそこを歩いているうちにふと松林を思い出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを?――と云うのは絶えずまわっている半透明の歯車だった。僕はこう云う経験を前にも何度か持ち合わせていた。歯車は次第に数を殖やし、半ば僕の視野を塞いでしまう、が、それも長いことではない、暫(しば)らくの後には消え失せる代りに今度は頭痛を感じはじめる、――それはいつも同じことだった。……


 芥川龍之介 『歯車』 一 レエン・コオト

 『歯車』 は昭和2年、芥川の死後に発表された小説。一から六までの各章の末尾に、昭和2年3〜4月の日付が記されているから、その時期に執筆されたのだろう。
 以前、この作品を読んだときは、精神を病んだ主人公 《僕》 の心象が描かれているだけで、何が何だかさっぱりわからなかった。しかし先日、感想を書いた 『蜃気楼』 を読み返して、ようやく気付いたことがあった。『蜃気楼』 の主人公は最初から最後まで常に誰かと行動を共にしているが、『歯車』 はほぼ全編にわたり、単独行動なのである。両作品とも、主人公の妻が登場するが、『蜃気楼』 における妻は、冗談を言ったり、日常的な会話をしたりする 《僕》 の理解者として描かれているのに対し、『歯車』 の後半になって登場する妻は、もはや 《僕》 の理解し得ない絶対的な他者となって現れている。

「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
 妻はやっと顔を擡(もた)げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」
 それは僕の一生の中でも最も恐しい経験だった。――僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?


 芥川龍之介 『歯車』 六 飛行機

 孤独と絶望のどん底に置かれた 《僕》 の壮絶な結末である。
 再読してもう一つ気付いたことがある。《僕》 は完全に狂ってしまっているように描かれているが、作者は全く狂ってなどいないということだ。異様なまでに研ぎ澄まされた文章だが、主人公を客観視し、きっちりと構成された作品に仕上げられているのである。本作と同じく死後に発表された 『或阿呆の一生』 の文章や構成の破綻と比較するまでもなく、『歯車』 は芥川にとって最後の、完成された作品なのだと思う。


河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

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