芥川龍之介 『蜃気楼』

 《僕》 と妻、K君の三人は、鵠沼海岸へ蜃気楼を見に来ている。途中、近くに住んでいるらしいO君も誘い出す。(K君は途中で帰ってしまう。)

 僕等は絶え間ない浪の音を後に広い砂浜を引き返すことにした。僕等の足は砂の外にも時々海艸(うみぐさ)を踏んだりした。
「ここいらにもいろんなものがあるんだろうなあ。」
「もう一度マッチをつけて見ようか?」
「好いよ。………おや、鈴の音がするね。」
 僕はちょっと耳を澄ました。それはこの頃の僕に多い錯覚かと思った為だった。が、実際鈴の音はどこかにしているのに違いなかった。僕はもう一度O君にも聞えるかどうか尋ねようとした。すると二三歩遅れていた妻は笑い声に僕等へ話しかけた。
「あたしの木履(ぽっくり)の鈴が鳴るでしょう。――」
 しかし妻は振り返らずとも、草履をはいているのに違いなかった。
「あたしは今夜は子供になって木履をはいて歩いているんです。」
「奥さんの袂の中で鳴っているんだから、――ああ、Yちゃんのおもちゃだよ。鈴のついたセルロイドのおもちゃだよ。」
 O君もこう言って笑い出した。そのうちに妻は僕等に追いつき、三人一列になって歩いて行った。僕等は妻の常談(じょうだん)を機会に前よりも元気に話し出した。


 芥川龍之介 『蜃気楼』 二
強調部は引用者による。

 昭和2年に発表された短編 『蜃気楼』 のテーマは 《錯覚》 である。
 本作における 《錯覚》 は誰が見てもそのように見えるという点で、《幻覚》 とは異なる。洋上の船が逆さまに映って見える蜃気楼も一種の 《錯覚》 である。浜辺で見かけたカップル、砂に埋もれた遊泳靴、セルロイドのおもちゃ、ネクタイ・ピンなど、さまざまなアイテムが描かれているが、それらが全て 《錯覚》 であることを 《僕》 は同行者に確認し、安心する。
 わずか10ページの短い作品だが、最初から最後まで 《僕》 は誰かと行動を共にしている。第三者と行動を共にすることによって、《錯覚》 を確認する作業を延々と繰り返しているわけである。芥川の死後に発表された 『歯車』 の主人公がほとんど単独で行動し、もはや何が現実なのか判らない状態に陥っているのと対照的だ。
 『蜃気楼』 の主人公は、自分が発狂し、現実を認識出来なくなるという不安を抱えている。しかし、《錯覚》 を確認しながら、かろうじて現実の側に踏みとどまっているように見える。

「おじいさんの金婚式はいつになるんでしょう?」
「おじいさん」と云うのは父のことだった。
「いつになるかな。………東京からバタはとどいているね?」
「バタはまだ。とどいているのはソウセェジだけ。」
 そのうちに僕等は門の前へ――半開きになった門の前へ来ていた。


 芥川龍之介 『蜃気楼』 二

 本作は、何気ない日常的な夫婦の会話で締めくくられる。芥川にとって、最後の平和なひと時であったのではないかと思う。