馬場孤蝶と樋口一葉

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 馬場孤蝶戸川秋骨平田禿木等、同人雑誌 『文學界』 の面々がしばしば樋口一葉の住居を訪ねたことは、再三述べたとおりである。だが、馬場は明治28年秋に滋賀県彦根に学校教師として赴任したため、樋口家常連から外れることとなった。
 そこへ登場するのが、斎藤緑雨(1868-1904)という人物である。

樋口一葉の真価を理解し、森鴎外幸田露伴とともに「三人冗語」で紹介した一人である。明治29年1月に手紙をやりとりし始め、緑雨は直截な批評を一葉に寄せるようになる。樋口家を訪問しては一葉と江戸文学や当時の文壇について語り明かし、一葉は「敵にまわしてもおもしろい。味方にするとなおおもしろそうだ」とその印象を日記に書き記している。以来、2人の交流は続き、一葉死後は一葉全集の校訂を引き受け、遺族の生活を請け負う一方、彼女の日記を手元にとどめ、死ぬ直前に友人の馬場孤蝶に託したことにも緑雨の一葉への愛着がうかがえる。


 斎藤緑雨 - Wikipedia

 「三人冗語」 というのは、『めざまし草』 という雑誌に、鷗外、露伴、緑雨の3名が変名で辛口の文学批評を掲載する趣向のもので、彼らは 『たけくらべ』 を絶賛し、一葉に対して 「三人冗語」 に加わってほしいとオファーした。この3名の中で最も一葉に近づいたのが緑雨だったのである。
 ところが、馬場孤蝶は 『明治文壇の人々』 の中で、さらなる裏話を披露している。

 緑雨は一葉からは可なり尊敬を表されて居たと信じて居たらしい。しかるに、日記の文面だけで見ると、必ずしもさうで無いやうに見られる。これが緑雨に取つては少し辛いことであつたらう。その次ぎには、日記には、『めざまし草』の連中が一葉に加盟を求めた時に、緑雨が陰でそれを妨害したことが、明白に書いてある。で、それが公表されるのは、緑雨は少し困るのであるらしかつた。


 馬場孤蝶 『明治文壇の人々』 「本所横網

 緑雨が二度目に一葉を訪ねた日の、彼女の日記(明治29年5月29日)は以下のものである。

『……「めざまし草」のことは誠なるべし、露伴との論も偽にはあらざらめど、猶このほかにひそめる事件のなからずやは。思ひてこゝにいたらば、世はやう/\おもしろくも成にける哉。この男、かたきに取てもおもしろし、みかたにつきなば猶さらをかしかるべく、眉山、禿木が気骨なきにくらべて、一段の上ぞとは見えぬ。』

 

 馬場孤蝶 『明治文壇の人々』 「緑雨と一葉」

 文壇の著名人だったはずの緑雨に対して、一葉がまるきり対等の感想を述べているのが面白い。それにしても、川上眉山平田禿木ともにけちょんけちょんにされている。
 一葉が没したのは明治29年11月。緑雨が亡くなったのが明治37年4月のことである。馬場は、一葉の存命中に緑雨とは面識がなかった。彼らが会したのは一葉が亡くなった翌年のことである。緑雨は一葉全集の浄書と日記原稿のみを馬場に託し、自分の書いたものは全て焼却してから死んだのだという。
 裏話だの悪口だのいろいろ書かれてはいるのだが、馬場の文章は基本的に、彼と緑雨との関係を、男と男の友情の話として記しているため、読後感は決して悪くはない。


 最後に、半井桃水(1860-1926)と一葉について語った馬場の講演から引用する。(講演の年代は不明だが、大正期であることは確かなので、半井桃水は存命中である。)

……さうして此の半井君に対する一葉の恋とも云ふべき関係は一葉の日記の中の色彩であるのみならず一葉の女としての人間生活に一番艶のある部分だと私共は考へて居る。で時々斯うやつて御話したり、書いたりするのであるが、私は何も半井君に向つて悪意を有つて居るのでないけれども、併し先方では随分時々迷惑になるやうに思つて居られるかも知れぬ。けれども亦私はさう云ふやうに書かれるのは大変結構なことであると思ふ。私も日記などにあの野郎度々出て来るが、俺に惚れてるらしいと云ふやうなこともありますが、是は何れでも宜しい。私は甚だ光栄と心得えて居ります。(笑声)……


 馬場孤蝶 『明治文壇の人々』 「樋口一葉女史に就いて」

 最後の方など、冗談を交えながら余裕を見せているようだが、馬場君いささか喋りすぎのようである。


明治文壇の人々 (ウェッジ文庫)

明治文壇の人々 (ウェッジ文庫)