泉鏡花 『高野聖』

 泉鏡花怪奇小説の最高峰とされる 『高野聖』(明治33年)を再読。
 語り手の 《私》 が旅先で出会った僧侶が語る昔話という体裁の短編小説である。鏡花の小説はとかく観念的とされ、抽象的で曖昧な描写が特徴的なのだけれども、本作の特に前半は、描写が気持ち悪いほど具体的である。
 若き日の旅僧が飛騨から信州へ向う道中、ちょっとしたことから薬売りの男にからかわれる。途中、道が二股に分かれているところがあって、片方は山道、もう片方は増水した川を渡る道である。先の薬売りはさっさと山道を登って行ってしまう。そこへ地元の百姓が通りかかり、山道には決して入ってはならないと云う。しかし、旅僧は薬売りを追って山に入る。
 すでにホラー小説の王道パターンである。だが、本当にすごいのはここからだ。
 旅僧の苦手な蛇が出る。さらに、樹上からは山蛭が雨のように降ってくる。

 肱をばさりと振ったけれども、よく喰込んだと見えてなかなか放れそうにしないから不気味ながら手を抓(つま)んで引切ると、ぷつりといってようよう取れる。暫時(しばらく)も耐(たま)ったものではない。突然(いきなり)取って大地へ叩きつけると、これほどの奴等が何万となく巣をくって我(わが)ものにしていようという処、予(かね)てその用意はしていると思われるばかり、日のあたらぬ森の中の土は柔(やわらか)い、潰れそうにもないのじゃ。
 ともはや頸(えり)のあたりがむずむずして来た、平手で扱(こ)いてみると横撫(よこなで)に蛭の背(せな)をぬるぬるとすべるという、やあ、乳の下へ潜んで帯の間にも一疋(ぴき)、蒼くなってそッと見ると肩の上にも一筋。
 思わず飛上って総身を震いながらこの大枝の下を一散にかけぬけて、走りながら先ず心覚えの奴だけは夢中でもぎ取った。
 何にしても恐しい、今の枝には蛭が生(な)っているのであろうと余(あまり)の事に思って振返ると、見返った樹の何の枝か知らずやっぱり幾ツということもない蛭の皮じゃ。
 これはと思う、右も、左も、前の枝も、何の事はないまるで充満(いっぱい)。
 私は思わず恐怖の声を立てて叫んだ。すると何と? この時は目に見えて、上からぽたりぽたりと真黒な痩せた筋の入った雨が体へ降りかかって来たではないか。


 泉鏡花高野聖』 八

 当て字とルビを多用した文体とリアルな語り口が、恐怖と生理的な不快感を煽りたてる名場面である。
 やがて、蛭の巣から逃れた旅僧がたどり着いたのは、ある一軒家。そこに住む一人の女に幻惑されて……、というのが話の本筋なのだが、これがまた幻想的でエロティックで素晴らしいのだ。
 《妖怪(おばけ)の隊長》 泉鏡花二十八歳の時の作品である。


歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

歌行燈・高野聖 (新潮文庫)