泉鏡花 『女客』

 『女客』 は明治38年に発表された短編小説。
 当家の主人 謹さんは母親と二人暮らしの独身者。そこへ上京した親戚の女 お民が幼子を連れて逗留している。謹さんとお民は同い年。最初は何気ない世間話をしているが、次第に謹さんの愚痴話になる。暮らしが貧しく、母親を満足に食わせることも出来ずに、濠から身投げしようかとまで思いつめたのだと、しかし、その時にお民のことを思い起こして生きてきたのだと、謹さんは語る。
 一方、お民もまた死にたくなることがあると云う。

 あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、
「飛んだ事を、串戯(じょうだん)じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲(ゆずる・小児の名)さんをどうします」
「だって、だって、貴下が、その年、その思いをしているのに、私はあの児を拵えました。そんな、そんな児を構うものか」
 とすねたように鋭くいったが、露を湛(たた)えた花片(はなびら)を、湯気やなぶると、笑(えみ)を湛え、
「ようござんすよ、私はお濠を楽みにしていますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、凄い死神なら可いけれど、大方鼬(いたち)にでも見えるでしょう」
 と投げたように、片身を畳に、褄(つま)も乱れて崩折れた。


 泉鏡花 『女客』 五

 そこへ聞こえる幼子の泣き声。お民は階下から子供を連れてきて、泣く子に乳を吸わせる。

 あるじは、きちんと坐り直って、
「どうしたの、酷(ひど)く怯えたようだっけ」
「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ」
 と頬に顔をかさぬれば、乳を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、
「鼬が、阿母(おっか)さん」
「ええ」
 二人は顔を見合わせた。
 あるじは、居寄って顔を覗き、故(ことさ)らに打笑い、
「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう」
 小児(こども)はなお含んだまま、いたいけに捻向(ねじむ)いて、
「ううむ、内じゃないの。お濠ン許(とこ)で、長い尻尾で、あの、目が光って、私(わたい)、私を睨(にら)んで、恐かったの」
 と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋(うず)めた。


 泉鏡花 『女客』 五

 背筋のあたりがぞくっとくるようなクライマックスである。
 本作は文庫本で20ページほどの小品である。舞台は最初から最後まで、謹さんのいる二階の部屋の中であり、会話もほとんどは二人の男女の台詞のみである。ちょっとした芝居仕立ての作品なのだ。火鉢を囲んだ二人が次第に近づいていくところ、それに連れて、二人が次第に思いつめて行くところは、鏡花の独壇場である。
 上に引用した、幼子が目覚める場面の後、ちょっとしたエピソードがあって、ふと全てが現実へと帰って行く結末は素晴らしいと思う。


歌行燈・高野聖 (新潮文庫)

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