森田草平、夏目漱石に叱られる

 馬場孤蝶 『明治文壇の人々』 から。
 明治29年樋口一葉本郷区丸山福山町で没した。その後、全くの偶然なのだが、この家に森田草平(1881-1949)が住んだため、馬場、森田らが中心となり 、明治36年に 「一葉会」 を催している。また、明治40年、馬場はこの家で夏目漱石に初めて会ったのだという。なんとも深き因縁である。
 森田草平というのは、漱石の門下生である。明治41年平塚らいてうと心中未遂事件を起こし、その翌年に漱石の勧めで自己告白小説 『煤煙』 を朝日新聞に連載している。僕は 『煤煙』 を読んだことがないのだが、漱石の 『それから』 に、主人公が 『煤煙』 を読んで批評する場面が描かれている。

……それから、森田君は『此の間も「煤煙」のことで、酷くやつつけられました』と云ふ。『さうかね。君「煤煙」が拙いとでも云ふのかね』ときくと『否。左様云ふんぢやありません。行くといふと『君は「煤煙」で見ると、僕の用を頼んだ時分にやア、女と歩いてばかりゐたんだね。だから、僕の用がちつとも片付か無かつたんだ』と云ふやうな芸術とは一向関係の無い方面から、まるで滅茶苦茶に叱られたんです。……(中略)……で、私は『先生、それは無理です。「煤煙」では、一日の出来事が九日も続いて出るので、一寸見ると、其様なことを九日も続けてやつてゐたやうに見えませうが、実際は唯だ一日の出来事なんです。だから、「煤煙」のやうなことを一日やつちやア、先生の仕事を二日やると云ふ風にしてゐたんで、先生の仕事を全然放棄(うつちや)つといた訳ぢやア決してありません』と、云ひました』
 斯う書いたばかりでは、森田君が夏目君に何時も凹まされてばかり居るやうだが、実際は、森田君は、夏目君の舌戦の相手としては、時になか/\手強いことがある。夏目君もこの漢、語るに足ると云ふ態度で森田君に対するので、種々な話が伝はる訳である。


 馬場孤蝶 『明治文壇の人々』 「漱石氏に関する感想及び印象」

 上の森田発言を読む限り、漱石は本気で怒ったわけではなく、なかばユーモアを交えながら、弟子のことを揶揄したのではなかったかと思うのだが、森田は真面目そのものである。
森田草平 - Wikipedia
 当時の森田はまだ二十代。郷里に妻子を置いて上京した新進の作家だが、漱石から見れば全くの書生扱い。使いっ走りにされていたようだ。