馬場孤蝶、島崎藤村と喧嘩する

 明治22年馬場孤蝶明治学院の二年級に編入し、島崎藤村と同級となる。少年時代の藤村は才気煥発、天秤棒(出っ張っているという意味)と綽名のつくくらい積極的な性格だったらしいのだが、この頃になると意気消沈し、学校も休みがちであったという。

……とにかく島崎君のその時分の態度なり行動なりが、どうも不自然であるやうに僕だけには思へたのだ。僕は忌憚なくそれを云つた。『貴様は陰険でいけない』と僕が笑ひながら云ふと、『陰険だとは随分ひどいことを云ふ。どこが陰険だ』などゝ島崎君が苦い顔をして答へたことなどがある。あんまり僕がつけつけいろ/\なことを云ふので、島崎君もむきになつて取組合ひが始まつたことなどもあつた。けれども、たゞ取組合ひだけで、殴ぐり合ひはしなかつたやうにおぼえてゐる。考へてみると、その時分には、もう島崎君に対しては敵意といふものを有つてゐたのではなからうと思ふ。何となく親しくなつて無遠慮にいろ/\なことを云ふやうになつてゐたからでもあらうと思はれるのだ。……


 馬場孤蝶 『明治文壇の人々』 「若かりし日の島崎藤村君」 三

 「若かりし日の島崎藤村君」 の冒頭に、「島崎藤村君が、今年は五十になつたといふことである。」 と記されているから、この回顧録は大正10年頃に書かれたものと思われる。
 一方、藤村は当時のことを 『桜の実の熟する時』(大正8年) に書いている。以下の文中、岸本捨吉のモデルが藤村、足立が馬場孤蝶である。

 足立が前に言ったことは、ふと捨吉の胸を通過ぎた。「何故、君はあんなに一時黙っていたんだ」と足立が尋ねたが、そう直截(ちょくさい)に言ってくれるものはこの友達の外に無い。捨吉はその時の答をもう一度探して見た。「僕は自分の言うことが気に入らなく成って来た……一時はもう誰にも口を利くまいと思った……そうすると独語(ひとりごと)を始めた、往来を歩いていても何か言うように成った……とても沈黙を守るなんてことは出来ない……」
 あの時、足立は快活な声で笑った。そしてこんなことを言った。「なにしろ岸本にも驚くよ。折角あんなに書いた物を焼いて了うなんて男だからねえ」


 島崎藤村 『桜の実の熟する時』 五

 藤村より三つ年上の馬場君は、あくまで快活な人である。交友関係が広く、面倒見の良い好青年だったのだろう。内省的で鬱屈したところのある藤村とは正反対の性格だが、二人の友情は生涯にわたって続いたのである。