明治期のメソジスト教会と永坂孤女院

 童謡 「赤い靴」 に関する事柄を調べていたら、興味深い記事を発見した。
麻布学(4)鳥居坂教会のルーツ - おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい
 僕の手元に大濱徹也著 『鳥居坂教会百年史』(1987年刊) があるので、参考にしながらいくつかの事柄について記しておくことにしたい。

カナダ・メソジスト教会の宣教

一応、簡単に1824年にカナダ・メソジスト監督教会が米国から分離したところから始まる。つまり、日本に来たメソジストの始まりは米国ではなくカナダだったということ。それによる特殊性を考慮しなければならない、ということらしい。


 麻布学(4)鳥居坂教会のルーツ - おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい

 プロテスタント教会の歴史は分裂・分派の歴史でもあります。1859〜1896年の間に、日本に宣教団(ミッション)を派遣した欧米の教会(というか教派)の数は31。そのうち、「メソヂスト」 と名のつく教派は4つもあります。
 米国メソヂスト監督教会とカナダ・メソヂスト伝道会社は、ともに1873年に日本宣教を開始していますが、分離してからすでに50年近く経っており、当時としては完全に別のものです。これら別々の宣教団が、それぞれ日本各地に教会を建立し、キリスト教主義学校を創設しました。東洋英和、青山学院、関西学院など、いずれもメソジスト派の宣教団によって建てられたものですね。一方、日本ではばらばらになっていたメソジスト教会を合同すべく、1907(明治40)年に 「日本メソヂスト教会」 が設立されています。
 東洋英和女学校(現・東洋英和女学院)と麻布メソヂスト教会(現・鳥居坂教会)は、いずれもカナダ・メソジスト教会の宣教師によって設立されています。「赤い靴」 のモデルとされる 「きみちゃん」 と関わりのあったアメリカ人宣教師ヒューエットもメソジスト派だったようですが、バックの組織が違いますから、おそらく教会内のつながり(師弟関係のような)はなかったのではないでしょうか。

永坂孤女院について

 教会が孤児院を経営していた、というのがユニークですが、これについては背景も含めて、『鳥居坂教会百年史』 に詳しく書かれているので、引用してみたいと思います。

 その一方では、教会の日常活動として、青年会に結集した「英和」の生徒を指導し、教会をとりまく近隣社会への伝道奉仕活動を展開した。青年会による「愛の業」は、『基督教新聞』が報じているように、未就学者に対する夜学校の開設にみられるボランティア活動として結実している。
 (中略)
……まさに東洋英和女学校生徒による働きこそは「貧民サンデー・スクール」をはじめ、恵風学校、孤女院を開設せしめた活力であった。
「貧民サンデー・スクール」は、女学校周辺の谷町、新網町、竹谷町、宮村町、網代町等の「細民街」に開設された。これら貧困児童の教育機関として明治二十七年頃までに設置されたのが恵風学校で、学校では小学校の教則にのって指導され、日曜日夜には母親のための集会を開催したりもした。麻布教会のクリスマスには、これら貧しき人が集り、「前夜与へられた食券と引換に、温い肉や野菜の煮物を給せられ」(雪野勇子「社会事業」『東洋英和女学校五十年史』)たという。また孤女院は、麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った女生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取って明治二十七年頃に開設したものである。この子供のための施設は、麻布一本松にあり、明治三十七年に麻布本村町に開設された孤児院が明治四十一年に麻布永坂町五十番地へ移転、「永坂孤女院」とよばれ、昭和三年に「永坂ホーム」と改称した。


 鳥居坂教会百年史』 第三章 麻布メソヂスト教会の成立

 昔の地名が頻出するので、わかりにくいのですが、まず当時の鳥居坂教会は現在、東洋英和女学院高等部のある場所にありました。(斜向かいの現在地に移転したのは終戦後のことです。)周辺は皇族、華族などのお屋敷が並ぶ土地で、教会や東洋英和に通うのも上流階級に属する人々でした。教会と東洋英和のつながりについては煩雑なので省略しますが、「英和の生徒は日曜日には教会へ行くべし」 というような規則が、少なくとも昭和50年代頃まではあったと、当時の学生から聞いています。
 孤女院が作られた麻布一本松は現在の元麻布1丁目あたり。移転先の麻布永坂町五十番地は鳥居坂下交差点付近です。麻布学(4)鳥居坂教会のルーツ - おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせいの記事に引用されている明治41年の写真は、おそらく移転直後のものではないかと思います。それから、『鳥居坂教会百年史』 に明治20年の麻布周辺地図が掲載されているのですが、この地図には竹長神社(現・十番稲荷神社)が載っています。

 きみちゃんの亡くなった孤児院、それは明治10年から大正12年まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。今、十番稲荷神社のあるところ、旧永坂町50番地にあったこの孤児院は女子の孤児を収容する孤児院として「麻布区市」にも書かれています。


 http://www.azabujuban.or.jp/juban/kimicyan/akaikutsu.html

 麻布十番商店街のサイトには、上のように書かれていますが、鳥居坂教会創立は1883(明治16)年ですから、年代的にも地理的にもずれがあります。

東洋英和と麻布学園

ところで、鳥居坂教会の関連の学校と言うと、東洋英和以外にも東京女子大麻布学園がある。特に、近来、東大進学御三家として有名な麻布中高学校。男子校である。麻布学園は、ある理由で、この鳥居坂系のグループと袂を分かち独立したそうである。「主義の違い?」


 麻布学(4)鳥居坂教会のルーツ - おおた 葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい

 1884(明治17)年、東洋英和女学校および東洋英和学校(男子部)が設立しました。『鳥居坂教会百年史』 によると、男子部が分離・独立した背景には、「明治三十二年の文部省訓令第十二号」 が関係していると書かれています。

 この訓令第十二号は、小学校・中学校・高等女学校における宗教教育・宗教的儀式を行うことを禁止したもので、キリスト教主義諸学校におけるキリスト教教育を不可能とした。とくに男子キリスト教主義学校は、女子のミッションスクールが各種学校として建学の理念を問いえたのに対し、上級学校への進学資格や徴兵猶予の恩典を失うため存続の危機に立たされた。ここに東洋英和学校は、明治三十三年三月に普通科を、翌年神学部を各々閉校した。すでに東洋英和学校は江原素六らの手で明治二十八年に普通科生徒によって麻布尋常中学校を設立していたが、麻布中学校は明治三十三年九月に英和学校から完全に分離し、鳥居坂の地を去って麻布本村町に校舎を新築して移転したのだった。


 鳥居坂教会百年史』 第五章 二十世紀大挙伝道をめぐって

「きみちゃん」について

墓参り - 蟹亭奇譚
 先日、青山墓地に墓参りに行った際、墓誌に 「佐野きみ」 という名が彫られているのを見ました。教会墓地に埋葬されるのは、教会員(その教会で洗礼を受けたか、もしくは他の教会から転入した人)およびその子女に限られるはずなのですが、「きみちゃん」 は果たして洗礼を受けたのかどうか、わかりません。10歳に満たない子供が洗礼を受ける場合、両親の承諾が重要視されるのですが、孤児の場合どうなのか。宣教師ヒューレット夫妻が親代わりとなった、あるいはヒューレット自身が 「きみちゃん」 に洗礼を授けたという可能性もありますが、よくわからないですね。


 『鳥居坂教会百年史』 には、「きみちゃん」 やヒューレットのことは触れられていません。しかし、明治期以降のキリスト教伝道史、キリスト教教育史について興味のある方なら、面白く読める本だと思います。お近くにお住まいであれば、鳥居坂教会に同書がありますので、問い合わせてみられてはいかがでしょうか。


【追記】
 http://jin3.jp/annai/jinja.htm のサイトに、以下の記述がありました。

由 緒・・・ 元 末 広 神 社  麻布坂下町四十一 鎮座
元 竹長稲荷神社  麻布永坂町四十三 鎮座
両神社は昭和20年4月15日、戦災を受け諸建物ことごとく焼失しましたが、昭和25年6月土地区画整理により両社境内を現在の麻布永坂町48番地(現麻布十番1丁目4番5)に換地を隣接指定され移転し、その後両社を合併、神社名を「十番稲荷神社」と改称しました。

 いずれにしても 「永坂町五十番地」 ではないのですが、100メートルと離れていない場所なので、どうでもいいですね。