おばあちゃんの話


 僕の祖母は明治二十七年に東京で生まれた。その頃の東京には無名時代の夏目漱石がいた。島崎藤村樋口一葉は同人雑誌に習作を載せていた。そんな時代の話である。ちょうど日清戦争が始まった年だが、さすがに日清戦争のことは記憶になくて、その代わりに日露戦争の話をよく僕に聞かせてくれた。ときどき空襲の話が混ざるので、日本が戦争に勝ったのか負けたのかよくわからなくて困った記憶がある。
 上の写真は祖母が十七八のころのもの。祖母は明治の終りに結婚して関西に住み、大正の初めに女の子を産んだ。娘が十二のときに夫が亡くなり、祖母は働きに出た。やがて祖母は再婚し、男の子を産んだ。十五になっていた娘は女学校をやめ、家を出て全寮制の音楽学校に入った。昭和の初めのことである。
 祖母の再婚生活は長くは続かなかった。なぜなら 《本当の結婚》 ではなかったからである。母一人子一人となったわけだが、その後も祖母の 《お妾さん》 生活は続いていたらしい。子供の頃の僕にはよくわからなかったが、血縁関係のない 《親戚》 が何人もいたから、おそらく子持ち妾として、あちこちに身を寄せていたのかもしれない。
 終戦後、一人息子は学校を卒業すると、就職のため母親を連れて上京した。息子は結婚し、祖母に初孫ができた。それが僕である。

 ふだんは着物を着ていたが、夏だけはアッパッパと呼ばれる木綿のワンピースを着ていた。気が短くて、すぐかっとなる人だった。テレビの時代劇が好きで、悪役の仕業を見ては 「アゝ、口惜しい」 と歯ぎしりし、大声で主人公を応援していた。父は関西弁と東京弁を完璧に使い分けたが、祖母は関西と東京の言葉がチャンポンになっていた。血圧が高かったため、大学病院に通っていたが、よく僕を一緒に連れて行ってくれて、帰りにデパートの 《お好み食堂》 でうなぎを食べるのが楽しみだった。

「おばあちゃんね、脳軟化症なんだって」
 ある日、祖母が僕にそう言った。脳軟化症というのは脳が老化してだめになる病気だと説明してくれた。今でいう認知症のことである。祖母は自分の病気のことを知っていたのだ。
 だが、祖母も周囲も気づかない間に、病気は進行していった。僕の母が財布からお金を盗るのだと、祖母は僕に言うようになった。「家に帰る」 と言って自宅を飛び出し、おまわりさんに連れられて帰ってくるようなことが毎日続いた。祖母が帰りたがる 「家」 とは彼女が生まれ育った東京の家のことだった。
 夜一人で寝かせるのが心配になってきたので、孫たちが交代で祖母の部屋に寝るようになった。ある夜、祖母が起き出して父を呼びに行き、「大変。私の部屋に男の人が寝てるのよ!」 と大騒ぎをした。祖母が指さす 「男の人」 とは僕のことだった。
 祖母が病院で亡くなってしばらくしてからのこと。彼女が生前二度洗礼を受けていたことが判明した。戦前と戦後に関西と東京のキリスト教会でそれぞれ受洗したらしいのである。同じ教派の教会だから改宗したというわけではなく、その間に別の宗教に関わっていたわけでもないので、ちょっとおかしな話なのだ。何か祖母なりの考えがあったのかもしれないが、ひょっとしたら洗礼の意味なんてわかっていなかったのかもしれない。なにしろ 「二倍御利益があるんだからいいじゃない」 くらいのことは言いだしかねない人だったのだから。
 もしも天国で祖母に再会することがあるとしたら、おばあちゃんは僕のことを思い出してくれるのだろうか。それとも、僕を指さして大騒ぎするのだろうか。気になるところなのだが、どちらであっても僕はかまわないと思っている。