島崎藤村 『嵐』

 子供らは古い時計のかかった茶の間に集まって、そこにある柱のそばへ各自の背丈(せたけ)を比べに行った。次郎の背の高くなったのにも驚く。家じゅうで、いちばん高い、あの子の頭はもう一寸四分ぐらいで鴨居にまで届きそうに見える。毎年の暮れに、郷里のほうから年取りに上京して、その時だけ私たちと一緒になる太郎よりも、次郎のほうが背はずっと高くなった。


 島崎藤村 『嵐』

 日当たりが悪く湿気の多い、谷底のようなこの住居に越してきたのは七年前のことである。そのときは太郎と次郎、それに末子の三人の子たちがいた。数年後、親戚に預けていた三郎がそこへ加わった。子供たちの成長は早い。家はどんどん狭くなっていった。
 病弱な太郎のため、《私》 は郷里に土地を購入し、長男を木曾に住まわせることにする。太郎はそこで農業を学びながら、新しい家を建てる。画を学びながら兄の仕事を助けるため、次郎が旅立つ日がやってきた――。
 大正15年に発表された短編小説 『嵐』 は、父子家庭の子育ての話であり、一旦崩壊した家族の再生の物語である。ここには四人の子供たちのそれぞれの姿が、実に生き生きと描かれている。
 当時のことを振り返って、島崎藤村の三男蓊助(1908-1992)は以下のように述べている。

 筆者は、この「嵐」に登場する三郎という人物のモデルに相当するわけで、長い月日の間には、いくたびとなくこの作品を愛読し、そこに定着されている自分の少年時代の影ぼうしをまのあたりみて、にがにがしくも、ほほえましくも、時にはいらだちに似た気持でその姿を追うことがあります。むかしのおとぎばなしでなく、昨日のことのように思いうかべることができます。父の様子も目に見える思いがします。フランスみやげの山高帽子にトウのステッキ、インバネスに白足袋という父の外出の服装が、穴ぼこのような飯倉の家を出て、子供引きつれ、麻布十番白十字あたりで、焼リンゴに紅茶などごちそうしていた時代のありさまが目にうかびます。


 島崎藤村 『嵐 他二篇』(岩波文庫)より 島崎蓊助による巻末解説(昭和31年)

 小説の前半、《私》 は 「家の内も、外も、嵐だ」 と独白する。内には子育てだけでなく、大病を患っている。外に目を向ければ、震災、不景気といった社会不安もある。作家島崎藤村もマスコミが喜びそうなスキャンダル問題を抱えている。「穴ぼこのような飯倉の家」 は、世間の 《嵐》 から家族を守るシェルターのような存在だったのではないだろうか。
 しかし、子供たちが一人ずつ巣立っていこうとする本作の結末では、「大都市は墓地です」 というロダンの言葉を引きながら、《私》 は次のように述懐する。

……そして、その墓地から起き上る時が、どうやら自分のようなものにもやって来たかのように思われた。その時になって見ると、「父は父、子は子」でなく、「自分は自分、子供等は子供等」でもなく、ほんとうに「私達」への道が見えはじめた。


 島崎藤村 『嵐』

 小説 『嵐』 はこの時期に書かれた短編には珍しく、ハッピーエンドである。
 結末の時点で、太郎は数え二十一歳。家族の物語は、間もなく終わりを迎える。