島崎藤村 『食堂』

 お三輪が東京の方にいる伜(せがれ)の新七からの便りを受取って、浦和の町からちょっと上京しようと思い立つ頃は、震災後満一年にあたる九月一日がまためぐって来た頃であった。お三輪に、彼女が娵(よめ)のお富に、二人の孫に、子守娘に、この家族は震災の当時東京から焼出されて、浦和まで落ちのびて来たものばかりであった。
 (中略)
 一年前の大きな出来事を想い起させるような同じ日の同じ時刻も、どうやら、無事に過ぎた。一しきりの沈黙の時が過ぎて、各自(めいめい)の無事を思う心がそれに変った。


 島崎藤村 『食堂』

 お三輪は京橋の商家「小竹」の娘として育った。輸入ものの高級雑貨を扱う店であったが、関東大震災で焼け出され、それまでに築いた全てを失った。

 新七から来た手紙には浦和まで母を迎えに行くとあって、ともかくもお三輪は伜の来るのを待つことにしていた。彼女は何を置いても、新七の言葉に従わねばならないように思った。それをしなければ気が済まないように思った。折角伜がそう言ってよこして、新しく開業した食堂を母に見せたいと言うのだから。

 新七が開いた食堂は、避難所やバラックの立ち並ぶ芝公園にあった。客に定食を出す店を切り盛りするのは、板長の広瀬さんにお力夫婦。いずれも、京橋時代に使用人として働いたことのある人たちだ。名目上の経営者である新七は腰の低い接客で、食堂は繁盛しているようだ。

 魚河岸の方へ行った連中が帰って来てからは、料理場の光景も一層の賑(にぎや)かさを増した。料理方の人達はいずれも白い割烹着に手を通して威勢よく働き始めた。そこにはイキの好い魚を洗うものがある。ここには芋の皮をむき始めるものがある。広瀬さんは背広に長い護謨靴(ゴムぐつ)ばきでその間を歩き廻った。素人ながらに、近海物と、そうでない魚とを見分けることの出来るお三輪は、今陸(おか)へ揚ったばかりのような黒く濃い斑紋(とらふ)のある鮎並(あいなめ)、口の大きく鱗(うろこ)の細(こまか)い鱸(すずき)なぞを眺めるさえめずらしく思った。庖丁をとぐ音、煮物揚物の用意をする音はお三輪の周囲(まわり)に起って、震災後らしい復興の気分がその料理場に漲(みなぎ)り溢(あふ)れた。
 こうなると、何と言っても広瀬さんの天下だ。そこは新七と、広瀬さんと、お力夫婦の寄合世帯で、互いに力を持寄っての食堂で、誰が主人でもなければ、誰が使われるものでもなかった。唯、実力あるものが支配した。そういう広瀬さんも、以前小竹の家に身を寄せていた時分とは違い、今は友達同志として経営するこの食堂に遠慮は反(かえ)って無用とあって、つい忙しい時になると、
「オイ、君」
 と新七を呼び捨てだ。新七はそれを聞いても、すこしも嫌(いや)な顔をしなかった。どこまでもこの友達の女房役として、共に事に当ろうとしていた。

 新七は昔の「小竹」を再興するつもりはないと云う。今は古い暖簾にこだわるような時代ではないのだとも云う。しかし、お三輪には若い者たちの考えを受け入れることが出来なかった。新しい食堂は良い人たちばかりだった。お三輪も 「御隠居さん」 と呼ばれて、下にも置かぬ扱いである。だが、六十を過ぎた彼女の思う時代は過ぎ去っていたのである。お三輪は昔を懐かしみながら、一人芝公園を去っていく――。


 『食堂』 は大正15年に発表された短編小説。
 震災後の東京の風景、人々の生活、復興の気運、新旧世代の交代……と様々の要素がきっちりと詰め込まれた佳品である。特に、上に引用した料理場の光景のリアルな描写は、息を飲むばかりだ。文章に無駄や隙がないのである。それに、主人公お三輪の視点を保ちつつ、意見の対立する親子のどちらかに与することもなく、中立を貫く作者の立ち位置は見事としかいいようがない。
 自伝的要素の強い作品を多く残してきた藤村だが、50代なかばにして新たな境地を開いたようである。

図書カード:食堂
 文庫本で25ページ程度の短い作品なので、ぜひ読んでいただきたいと思う。