坂口安吾 『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』
岩波文庫の短篇集感想。
坂口安吾は 『不連続殺人事件』 と 『風博士』 くらいしか読んだことがなく、まとめて読むのは初めてである。
本書には、坂口安吾の短編小説の中から、自伝的作品を除く純文学および幻想文学の代表作が集められている。
自伝的作品は、岩波文庫のもう一冊 『風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇』 に収録されているらしい。
『風博士』(1931年)
ダントツでこれが好き。作者24歳のときの作品だって? 信じられない。
『傲慢な眼』(1933年)
令嬢と絵描きの少年の出会いと別れを描いたわずか6ページの小品。短すぎて今一つ物足りない。
『姦淫に寄す』(1934年)
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイによる福音書 5:28)という聖書の言葉を踏まえないと、わけがわからない作品。語り手は聖書に批判的なように見えるが、思考が揺れ動いていて、文章にも枝葉が多く、一貫性に欠ける。
主人公が聖書研究会で知り合った氷川澄江に誘惑されるという話だが、澄江は未亡人だと称しているため、「姦淫」に該当しないのではないか? それにしても読みにくい小説だ。
『不可解な恋愛に就て』(1936年)
絵の先生が女弟子に恋をするが、彼女は別の青年と結婚する。田山花袋 『蒲団』 と登場人物の配置がそっくりである。
『白痴』(1946年)
「気違い」の夫と姑に虐待された「白痴の女」を匿い、空襲の夜を二人で逃げる話。前半に描かれる登場人物は全員どこか変である。
昔、「徴兵検査に行ったらカタワとチンバばかりだった。こりゃ日本は負けるだろうと思った」という話を、知人の父君から聞かされたことがある。戦争末期の東京には健康な若い男などほとんどいなかったのだろうと思う。
『女体』(1946年)
病弱な谷村と健康で妖艶な妻素子という三十代夫婦の話。理屈っぽくて気持ち悪い。
『恋をしに行く』(1947年)
『女体』の続編。谷村は26歳の信子に思いを打ち明ける。
「信ちゃん。胸のお乳を見せておくれ、こんな細い、丸い、腰の美しさがあるなんて、今日まで考えてもいなかったから。僕は信ちゃんのからだを、みんな見たい」
「ええ、見て」
勝手にしろ。
『戦争と一人の女 [無削除版]』(1946年)
主人公野村は遊女上がりの女と同棲している。
女は戦争が好きであった。食物の不足や遊び場の欠乏で女は戦争を大いに呪っていたけれども、爆撃という人々の更に呪う一点に於て、女は戦争を愛していたのである。
戦争が好きな女、というのが不気味である。
『続戦争と一人の女』(1946年)
前作と同じ話を女の一人称視点で描いた姉妹作。
夜の空襲はすばらしい。私は戦争が私から色々の楽しいことを奪ったので戦争を憎んでいたが、夜の空襲が始まってから戦争を憎まなくなっていた。戦争の夜の暗さを憎んでいたのに、夜の空襲が始まって後は、その暗さが身にしみてなつかしく自分の身体と一つのような深い調和を感じていた。
こういう小説、当時の読者はどのように受け止めたのだろう?
『桜の森の満開の下』(1947年)
満開の桜の下にいると発狂する―― 。むやみにたくさんの人を殺したり、男が女の言うなりになったりする話は谷崎潤一郎も多く書いているが、マゾヒスティックな官能を全く欠いているのが安吾である。
また、最後の一行でくるっと宙返りしたように美しく結ぶのも安吾である。
『青鬼の褌を洗う女』(1947年)
ほぼ同時期に発表された太宰治 『斜陽』 と好対照をなす作品。
私がムシロにくるまって死にかけているとき青鬼赤鬼が夜這いにきて鬼にだかれて死ぬかもしれない。(中略)私は青鬼赤鬼とでも一緒にいたい、どんな時にでも鬼でも化け物でも男でさえあれば誰でも私は勢いっぱい媚びて、そして私は媚びながら死にたい。
主人公サチ子は終戦後にしてはかなり贅沢な暮しをしているようだが、所詮は「オメカケ」なのだという点がポイントである。
『夜長姫と耳男』(1952年)
『桜の森の満開の下』 と同様、説話風の創作。前半と後半が別々の話になっていて、つながりはあるものの後半は蛇足としか思えない。後半は設定を変更して、別の作品に仕上げたほうが良かったのではないか?
- 作者: 坂口安吾
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/10/16
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