お茶の時間

 岸本はフランスに向かう船の中で、顛末を告白する手紙を次兄義雄に書く。義雄からの返信には、すべて任せろただし金は出せと書かれている。岸本がパリに着いて数ヵ月後、節子は母親にも知らせず、郊外の産院で男の子を生む。だが、赤児の顔を一目見ただけで、どこかの他人の家に子供は引き取られていった、と節子からの手紙には書かれていた。悲しい出来事だが、とりあえず母子ともに無事である。

 岸本の下宿に、パリで知り合った岡という年下の画家が訪ねてくる。日本人同士、異郷で語りあう話題は日本のことばかりである。(強調部は引用者による。強調の意味は後述する。)

 岸本は洗面台の横手にある窓の下へアルコール・ランプと湯沸かしを取りに行った。それはどこかの画室のすみにころがっていたのを岡がさがし出して以前に持って来てくれたものであった。留学していた美術家の残して置いて行った形見であった。
 「岡君、国から雑誌や新聞が来ましたよ。僕の子供のところからはお清書なぞを送ってよこしました。」
 「岸本さんは子供は幾人(いくたり)あるんですか。」
 「四人。」
 と岸本は言いよどんだ。岡はそんなことに頓着なく、
 「皆東京のほうなんですか。」
 「いえ、二人だけ東京にいます。三番目のやつは郷里(くに)の姉のほうに行ってますし、いちばん末の女の子は常陸(ひたち)の海岸のほうへ預けてあります。今生きてるのが、それだけで、僕の子供はもう三人も死んでますよ。」


 島崎藤村 『新生 前編』 第一部 六十七

 馬鹿野郎! 5人目の子供はどうした! と思わず、拳を握りしめたくなるような場面だ。旅先で知り合った、ほとんど行きずりともいうべき相手に対しても、主人公は真実を語ることが出来ないのである。
 一方、岡もまた暗い過去を日本に残してきた男であった。恋人があったが、相手の母や兄に猛反対されたのだと云う。

……意中の人の母にあてた激しい手紙を残し、その人の兄とも多年の親しい交わりを絶って、そして国を出て来たというこの男の憤りと恨みとはいかなる寛恕(かんじょ)の言葉をも聞き入れまいとするようなところがあった。湯沸かしの湯が煮立った。岸本は町から求めて来たフランス出来の茶わんなぞを盆の上に載せ、香ばしいにおいのする国のほうの緑茶をついで岡に勧めた。


 島崎藤村 『新生 前編』 第一部 六十八

 二章にまたがる岸本と岡の会話は、回想を交えながら、次第に激しさを増していく。これだけの場面が、実際はお湯を沸かすだけのわずかな時間の出来事として描かれるあたりに、藤村の筆の冴えを感じる。
 果たして岸本は心を開くことが出来るのだろうか。