死者の祭り

 1914年、世界大戦勃発。岸本は戦火のパリから、フランス中部の田舎町リモージュへ逃れる。そこへ、ビヨンクールの老婦人の亡くなったしらせが届く。彼女は英語を話す親日家で、岸本がフランスへ着いたばかりの頃、最初に彼を迎え入れた人であった。また、彼女の姪が日本人と結婚するにあたって、岸本が相談に乗ったのもこの老婦人であった。

 知らない国の人が亡くなったとも思われないような力落としを感じながら、岸本はひとりでサン・テチエンヌの古い寺院(おてら)のほうへ歩いて行った。
 ちょうど死者のための大きな弥撒(メス)が行われているところであった。ヴィエンヌ川の岸に添うて高く岡の上に立つその寺院は、ゴシック風の古い石の建築からして岸本の好ましく思うところで、まるで樹と樹の枝を交叉した林の中へでもはいって行くような内部の構造まで彼には親しみのあるものとなっていた。よく彼はそこへ腰掛けに来た。その日もあの亡くなった老婦人の生涯を偲ぼうためばかりでなく、しばらくその静かな建築物(たてもの)の中で自分のたましいを預けて行くことを楽しみにした。あだかも樹陰(こかげ)に身を休めて行こうとする長途の旅人のごとくに。
 大理石の水盤で手をぬらし十字架のしるしを胸の上に描きながらその日の儀式に参列しようとする婦人の連れは幾組みとなく岸本のわきを通った。戦時以来初めての死者の祭りのことで、負傷したフランスの兵士らまで戦友を弔い顔(がお)に集まって来ていた。(中略)岸本は高い石の柱のそばを選んで、知らない土地の人たちと一緒に腰掛けた。古めかしく物さびた堂のなかへ響き渡る少年とおとなの合唱の肉声は巨大なオルガンの楽音と一緒になっておごそかに聞こえて来ていた。ちょうど暗い森の樹(こ)の間を通してもれる光のように、聖者の像を描いた高い彩(あや)ガラスの窓が紺青、紫、紅、緑の色にその石の柱のところから明るく透けて見えていた。


 島崎藤村 『新生 前編』 第一部 百二〜百三

レクイエム (フォーレ) - Wikipedia
 上の文章を読んで、僕はフォーレ(1845-1924)の 「レクイエム」 を思い起こす。
 レクイエム(死者のためのミサ曲)はカトリック典礼に用いられる宗教曲だが、悲しみ、嘆き、(神の)怒り、懺悔といった形式に則って作曲され、モーツァルトヴェルディの作品のように強い感情表現を伴うものが多い。ところが、フォーレが作曲した 「レクイエム」 *1はそういった感情表現を突きぬけてしまって、最初から最後まで 「平安」 をうたっているという特色がある。藤村が描くヨーロッパ大戦下のミサの場面に、最もふさわしい音楽ではないだろうか。
 藤村はパリでドビュッシーの演奏を聴いたと書いている。フォーレも同時代の音楽家であり、ひょっとしたら藤村はフォーレを聴いたことがあるのではないかと思う。


フォーレ:レクイエム

フォーレ:レクイエム

 フォーレの 「レクイエム」 といえばクリュイタンス盤。合唱とオーケストラが遠くから静かに聞こえてくるような名演奏である。人間の死をこのような形であらわした音楽に、あらためて驚く。

*1:合唱と管弦楽のために作曲されているので、厳密には教会音楽ではないけれども。