クレンペラー/ブラームス 『ドイツ・レクイエム』

レヴァイン/ブラームス 『ドイツ・レクイエム』 - 蟹亭奇譚の続き。
 オットー・クレンペラー盤 『ドイツ・レクイエム』 の CD を買ったら、これがすごかった。
 70分もある大曲なので、全部通して聴くことなんて滅多になかったのだけど、僕はこの演奏に驚き、購入した日に3回も続けて聴いてしまったのだ。以後数日、毎日聴きつづけているが飽きないのである。リヒターの 『マタイ受難曲』 も、ベームの 『モツレク』 も愛聴盤だが、こんなに夢中になって聴いたことはなかったと思う。
 このクレンペラー盤は、YouTube で全曲試聴することが出来る。*1 1961年の録音なので決して良い音質ではないのだが、この曲の持っている優しさ、力強さを最もストレートに歌いあげた世紀の名演奏だと思う。


1. Selig sind, die da Leid tragen ― 悲しむ人々は幸いである

 オットー・クレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団、フィルハーモニア合唱団の演奏。重厚な低音の序奏に続いて、"Selig sind" (幸いなるかな) の合唱が静かに、そして次第に強く歌われる。この "Selig sind" は最終曲の中で再び用いられる。


2. Denn alles Fleisch ― 人はみな草のごとく
 
 最も長い第2曲。絶望的、厭世的な歌詞。重苦しい雰囲気が延々と続くのだが、後半、突然曲調が変わり(上の動画で 2b の3分50秒から)、"Aber des Herrn Wort bleibet in Ewigkeit." (しかし、主の言葉は永遠に変わることがない)と高らかに宣言される。前半のクライマックスである。


3. Herr, lehre doch mich ― 主よ、わが終わりを知らしめたまえ

 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウバリトン・ソロが加わる第3曲。「教えてください、主よ、わたしの行く末を。わたしの生涯はどれ程のものか。いかにわたしがはかないものか、悟るように。」 男は神に向かって、自らの生の意味を問いかける。非常に大きなクエスチョン・マークである。神からの答は後半の合唱パートによって力強く歌われるが、答になっていない気がする。


4. Wie lieblich sind deine Wohnungen ― 万軍の主よ、あなたのすまいは

 第4曲は合唱による神への讃歌。ステレオで聴くと、ソプラノとアルトが左右から聞こえて美しい。


5. Ihr habt nun Traurigkeit ― 今はあなたがたも悲しんでいる

 エリザーベト・シュワルツコップのソプラノ・ソロが加わる第5曲。起承転結の 「転」 にあたるパートである。シュワルツコップの暖かみのある歌声が、「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」 と聴く者を包み込んでいく。


6. Denn wir haben hie ― われら地上に永遠の都を持たず
 
 再びフィッシャー=ディースカウバリトンが加わる第6曲。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。」 第3曲のときの不安定な曲想とは違い、確信に満ちたパウロの言葉(コリントI書15章)を彼は歌う。続く合唱は同じくコリントI書から、「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」 力強いメッセージを乗せて、オーケストラは咆哮し、合唱は絶叫する。全曲中のクライマックスである。


7. Selig sind die Toten ― 主に結ばれて死ぬ人は幸いである

 最終曲は、第1曲と同じ "Selig sind" (幸いなるかな) という合唱で始まる。ヨハネの黙示録からの引用だが、なぐさめと慈愛に満ちたエンディングとなっている。合唱は強く盛り上がった後、静かに消えて行き、最後は木管楽器とハープの音色が余韻を残しながら終わる。


ブラームス:ドイツ・レクイエムの歌詞と音楽

ブラームスは聖書の中から、明確な意図をもって語句を選び、元の文脈とは離れたところでそれらを配列、再構成しています。自らはっきりと、「ヨハネ福音書3:16(神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。=新共同訳)のようなテキストを意図的に避けた」と述べているのです。

 あらためて、『ドイツ・レクイエム』 全曲を聴きながら、歌詞の対訳および聖書の該当箇所を読みなおしてみたのだが、なるほど、この曲にはイエスの言葉(第1曲と第5曲)は引用されているが、「キリスト(救世主)の復活」 も 「神の裁き」 も全く出てこない。
 また、語られたメッセージを肯定する 「アーメン」 も出てこない。*2 ブラームスが引用した聖句は強いメッセージ性を持っているのだが、聴く者に対しそれらを肯定することを強要していないのである。愛する者を失った人々をなぐさめようとするとき、なぐさめの言葉を強要しないというのは重要なポイントであろう。語られた言葉をどのように受け止めるかは、あくまでも聴き手に任されているのである。


 本記事中、聖書の引用(歌詞の該当箇所)は 『新共同訳聖書』(日本聖書協会) による。また、各曲のタイトルの横の邦題は、各種 CD 等を参考にしながら、僕がつけたものである。(文語と口語が混ざっているのだが、出来るだけわかりやすくしたかったのだ。)
 また、本記事を書くにあたって、神崎正英さんのサイトを参考にした。素晴らしい日本語訳と詳細な注釈が書かれているので、これから 『ドイツ・レクイエム』 を聴こうとする方はぜひ神埼さんのウェブページを読みながら聴いていただきたいと思う。
 


ブラームス:ドイツ・レクイエム

ブラームス:ドイツ・レクイエム

*1:YouTube の音声は残念ながらモノラル。CD はステレオ。

*2:ヘンデルの 『メサイア』 やモーツァルトの 『レクイエム』 には重要な部分に 「アーメン」 が用いられている。