女性不信

 パリにもどった岸本は、過去に出会った女たちのことを思い起こす。女学校の教え子だった勝子は他人のもとへ嫁ぎ、妊娠中のつわりが原因で1年後に死んだ。妻の園子もまた結婚してから12年後に突然亡くなった。彼が愛した女性は皆突然に彼の前から消えてしまうのである。

 彼は失ったものを取り返そうとして、かえって待っている者までも失った。園子が産後の出血で、ほとんど子供らに別れの言葉を告げる暇もなくこの世を去ったころは、彼はただ茫然として女性というものを見つめるような人になってしまった。もし彼がもっと世にいう愛を信ずることができなたら、子供を控えての独身というような不自由な思いもしなかったであろう。親戚や友人の助言にも素直に耳を傾けて、後妻を迎える気にもなったであろう。信のない心――それが彼の堕(お)ちて行った深い深い淵(ふち)であった。失望に失望を重ねた結果であった。そこから孤独も生まれた。退屈も生まれた。女というものの考え方なぞも実にそこからくずれて来た。
 旅に来て、彼は姪からかずかずの手紙を受け取った。いかに節子が彼女の小さな胸を展(ひろ)げて見せるような言葉を書いてよこそうとも、彼にはそれを信ずる心は持てなかった。


 島崎藤村 『新生 前編』 第一部 百二十七

 『新生 前編』 において、節子が直接に登場する前半は、彼女のセリフが極端に少なくて、この姪がどんな人物なのかはっきりしない。彼女の考えが明らかにされるのは、岸本がパリに発ってから、頻繁に送られてくる手紙を通じてである。つまり、一言でいってしまえば、節子は岸本を愛しているのだ。
 ここへ来て、ようやく岸本が海外へ逃避した本当の理由が明らかになる。彼は親戚や世間の目を逃れようとしたのではなかった。節子の愛情から逃れようとしていたのである。
 戦争は長引き、やがて彼にも帰国のときが近づく。前編はここまでである。