2009-09-03 島崎藤村と子供たちのその後 日本文学 島崎藤村は 『分配』 を最後に子供たちの登場する小説を書かなくなってしまったので、各種年譜を頼りに彼らのその後を辿ってみたい。*1 島崎藤村 昭和3年、加藤静子と結婚。 昭和3〜10年、『夜明け前』 執筆。 昭和17〜18年、『東方の門』(未完) 執筆。 昭和18年8月21日、『東方の門』 執筆中に倒れ、翌日永眠。(絶筆の原稿は本当に文章の途中で終わっている。) 最期の言葉は 「涼しい風だね」 であったと言われる。 楠雄(長男) 大正11年より木曾にて農業を営む。 昭和7年、結婚。 財団法人藤村記念郷初代理事長、藤村記念館顧問を勤める。 昭和56年没。 鶏二(次男) 大正15年、木曾にて農業を手伝いながら、美術を学ぶ。 昭和初期より洋画家として活躍。同時に父藤村の秘書を勤めている。 昭和19年、戦死。 蓊助(三男) 昭和初期より洋画家として活躍。プロレタリア運動に関っている。 戦後は、父藤村の遺した資料・文献の整理に尽力した。 馬籠の藤村記念館の入口に飾られている 「年譜」 の原稿は、彼が著したものである。*2 平成4年没。 柳子(四女) 昭和10年、結婚。長野県南佐久郡臼田町へ嫁ぐ。 母冬子にそっくりで、娘時代の写真を見ると、どちらが娘か区別がつかないほどである。 *1:参考文献:『日本文学全集8 島崎藤村集』(河出書房)、『新潮日本文学アルバム 島崎藤村』(新潮社)など。ほかに藤村記念館の展示物に基づく。 *2:「年譜」 は長さ九尺の檜板3枚におよぶ大作で、全集本で8ページの分量がある。蓊助の原稿を兄楠雄が墨書し、僧石原宗純氏が一字一画ノミで刻んだ芸術作品である。