唐天竺の果てまでも

 お力は一散に家を出て、行かれる物なら此まゝに唐天竺の果までも行つて仕舞たい、あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かゝつて暫時そこに立どまれば……


 樋口一葉にごりえ
強調部は引用者による。以下同様。

……此の際お露が後を追い掛けて、又卯三郎の魔術に罹ったら大変である。可哀そうだが彼奴は是非とも妹との縁を切って、未来永劫上州屋へは寄りつけないようにして置きたい。成ろう事なら唐天竺へ行って了って貰いたい。お露に会えなくなりさえすれば、自然とお才にも近づく機会を失うであろう。


 谷崎潤一郎 『お才と巳之介』 六

 『にごりえ』 は明治28(1895)年、『お才と巳之介』 は大正4(1915)年に発表された小説である。時代の異なる文学作品に 「唐天竺〜」 という共通の表現が出てくるのがなんとも不思議だが、これは慣用句なのだろうか? ふと疑問に思って、辞書を引いたらちゃんと出ていた。
格助詞(かくじょし)の意味 - goo国語辞書

中国とインド。非常に遠いところのたとえにいう。
「―の果てまでも」

 それにしても、やけに芝居がかった云いまわしである。古い浄瑠璃あたりに、元ネタがありそうな気がするのだが、どうなんだろう?

 
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FETISH STATION - 樋口一葉 『にごりえ』
FETISH STATION - 谷崎潤一郎 『お才と巳之介』