島崎藤村 『千曲川のスケッチ』

 島崎藤村は明治32〜38年を信州小諸で過ごした。『千曲川のスケッチ』 は明治33年から書き綴った写生文(スケッチ)を書き直して、明治44年に発表したものである。
 本書の冒頭 「序」(「大正元年冬」と書かれている) は以下のように始められている。

 敬愛する吉村さん――樹(しげる)さん――私は今、序にかえて君に宛てた一文をこの書のはじめに記すにつけても、矢張(やっぱり)呼び慣れたように君の親しい名を呼びたい。私は多年心掛けて君に呈したいと思っていたその山上生活の記念を漸(ようや)く今纏(まと)めることが出来た。
 樹さん、君と私との縁故も深く久しい。私は君の生れない前から君の家にまだ少年の身を托して、君が生れてからは幼い時の君を抱き、君をわが背に乗せて歩きました。


 島崎藤村千曲川のスケッチ』 序

 この書き出しを読んで、僕は新約聖書の以下の一節を思い起こした。

 神のみ旨により、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって立てられたキリスト・イエス使徒パウロから、愛する子テモテへ。
 (中略)
 わたしは、日夜、祈の中で、絶えずあなたのことを思い出しては、きよい良心をもって先祖以来つかえている神に感謝している。わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びに満たされたいと、切に願っている。


 口語訳聖書 『テモテへの第二の手紙』 第1章1〜4節

 『千曲川のスケッチ』 は内容的にはキリスト教とは何の関係もない作品である。しかし、吉村樹という青年に宛てて書いているという形式(本文中に何度も 「君」 への呼びかけが出てくる。)と、使徒パウロが若き伝道者テモテに宛てた書簡との相似は、決して偶然ではないだろう。*1
 晩年のパウロは同 『手紙』 の中で、「わたしが世を去るべき時はきた。」(同第4章6節)と書いている。どういう状況の下で書かれたものなのかよくわからないが、ぎりぎりの切羽詰まった感情の高まりの感じられる手紙*2だと思う。一方、本書が発表されたのは、小説 『家(下巻)』 完結直後である。藤村も作家として、一個人として、ぎりぎりの精神状況に置かれていた時期にあたる。

 樹さん、君のお父さんも最早(もう)居ない人だし、私の妻も居ない。私が山から下りて来てから今日までの月日は君や私の生活のさまを変えた。しかし七年間の小諸生活は私に取って一生忘れることの出来ないものだ。


 島崎藤村千曲川のスケッチ』 序

 急に感傷的になりかかったところで、 「序」 は結ばれる。そして、そのあとに始まる本文は、感傷とは全く違った、現実的な、信州の人々の生活風景が描かれているのである。

 ところで、吉村樹という青年は、藤村が東京遊学中に居留した家の息子であり、小説 『家』 には直樹という名前で登場している。上巻ではまだ中学生だが、下巻になると会社勤めの好青年になっており、少女たちの人気の的である。主人公三吉の姪お俊は、直樹から恋文を受け取っておおはしゃぎしたりしている。性格の良いイケメンだったのだろうか。

*1:藤村の小説と新約聖書との類似については、以前書いたことがある。FETISH STATION - 島崎藤村 『破戒』 参照。

*2:『テモテへの第二の手紙』 は後年に別人によって著されたものだという説もあるときく。しかし、そのことは本記事とは何の関係もない。