中棚荘

 八月のはじめ、私はこの谷の一つを横ぎって、中棚(なかだな)の方へ出掛けた。私の足はよく其方(そちら)へ向いた。そこには鉱泉があるばかりでなく、家から歩いて行くには丁度頃合の距離にあったから。
 中棚の附近には豊かな耕地も多い。ある崖の上まで行くと、傾斜の中腹に小ぢんまりとした校長の別荘がある。その下に温泉場の旗が見える。林檎畠が見える。千曲川はその向を流れている。


 島崎藤村千曲川のスケッチ』 その四 「中棚」

 21年前というから昭和の終り頃だろうか、ここで温泉を掘り出したのだそうだ。昔は沸かし湯だったのが、今では熱い湯がふんだんに出る。温泉の成分も全く違う。藤村の時代の鉱泉は今、旅館の脇をちょろちょろ流れているのがそれらしい。

樹々の間に月を見ながら露天風呂


雷の遠くに聞こゆ中棚荘


 日本旅館に泊まると、夕食を食べて温泉に浸かればあとは暇である。時間が余ったので、妻と二人で俳句ごっこをして遊ぶ。

窓を開け車の中も蝉時雨


窓を開け連れ帰りたや蝉の声


藤村をたずねて歩く夏の旅


打たせ湯に疲れし体和らひで


トンネルを抜け出るごとに夏の雲

 素人だから季語もあったりなかったりだが、そのあたりはご容赦いただきたい。ノートを持ってくるのを忘れたので、宿の便箋に書いて持ち帰る。
 翌日の気温23度。軽井沢に立ち寄ったら、正午の気温が18度だった。8月の初めのことである。