志賀直哉 『剃刀』

 志賀直哉 『剃刀(かみそり)』 は、明治43(1910)年に発表された短編小説。
 風邪をひいて熱に浮かされた床屋の主人がだんだんと精神的に追い詰められ、最後には剃刀で客の咽を切って殺してしまうというストーリーで、今日的な言葉でカテゴライズすれば心理サスペンス、サイコ・ホラー(しかもスプラッター)に相当する作品だ。
 簡潔な情景描写、端正な文章を特徴とする志賀直哉だが、後年の私小説とは異なり、ごく初期の頃に執筆された本作は、ストーリーと主人公の心理描写が魅力になっている傑作である。
 本作には、オカルト的な現象は一切登場しない。また、妄想・幻覚などの要素は全く排除されている。あくまでも、日常的な現実の中に起こる小さな出来事の積み重ねによって、主人公の精神が犯されていく様子が、読者に不安と恐怖を与えるのである。

 芳三郎は殆ど失神して倒れるように傍(かたわら)の椅子に腰を落した。総ての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還って来た。眼をねむってぐったりとして居る彼は死人のように見えた。夜も死人の様に静まりかえった。総ての運動は停止した。総ての物は深い眠りに陥った。只独り鏡だけが三方から冷やかにこの光景を眺めて居た。

 上の引用箇所は本作の結末部分である。「只独り鏡だけが三方から冷やかにこの光景を眺めて居た。」 という最後の一文は、この物語を主観から客観へ、絶対から相対へと導いており、見事というほかない。

清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)

清兵衛と瓢箪・網走まで (新潮文庫)

 『剃刀』 は、『清兵衛と瓢箪・網走まで』 (新潮文庫)に収録されている。本文わずか11ページの短い作品なので、書店で見かけたら立ち読みでもかまわないから手にとっていただきたいと思う。