三島由紀夫 『金閣寺』

選ばれし者が持つという第三の眼。詳しくは下記の原文を参照。
転じて、子供の頃に考えたような痛い妄想設定のことを総じて「邪気眼」と呼ぶこともある。


邪気眼とは - はてなダイアリー

 ああ、これって三島由紀夫の 『金閣寺』 みたいだなあと思って、文庫本の冒頭部分を読み返していたら、以下の一節が目に止まった。

こうして日頃私をさげすむ教師や学友を、片っぱしから処刑する空想をたのしむ一方、私はまた内面世界の王者、静かな諦観にみちた大芸術家になる空想をも楽しんだ。外見こそ貧しかったが、私の内界は誰よりも、こうして富んだ。何か拭いがたい負(ひ)け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた。


 『金閣寺』 第一章 
*強調部
は引用者。

 本作の主人公 「私」 が少年時代を回想して綴る様々なエピソードの始まりの部分である。このあと、「私」 自身によって自己の暗い思春期が語られるのだが、どれも中二病的な挿話ばかりが続いていくのだ。“邪気眼コピペ”はちょっとした笑い話であり、『金閣寺』 はシリアスな小説だが、きわめて共通するものを感じるのである。
 “これこれの状況であればこれこれのように感じるのは当然だ。なぜなら〜”という書き方が本作には頻出する。感情の問題を論理的に捉えすぎていると思うのだが、そういうところもひっくるめて、「中二病」 なのではないだろうか。

 「私」 は大学予科に入学、柏木という学生と出会う。「私」 もいい加減暗い性格だが、柏木のそれは遥かに上回っていた。

「君は、やっと安心して吃れる相手にぶつかったんだ。そうだろう? 人間はみんなそうやって相棒を探すもんさ。それはそうと、君はまだ童貞かい?」
 私はにこりともしないでうなずいた。柏木の質問の仕方は医者に似ていて、私は嘘をつかぬことが身の為であるかのような気持にさせられた。
「そうだろうな。君は童貞だ。ちっとも美しい童貞じゃない。女にもてず、商売女を買う勇気もない。それだけのことだ。しかし君が、童貞同士附合うつもりで俺と附合うなら、まちがってるぜ。俺がどうして童貞を脱却したか、話そうか?」
 柏木は私の返事も待たずに話し出した。


 『金閣寺』 第四章

 学友に初めて話しかけた結果がこれである。柏木は決して女性にモテる強者ではなく、自らの身体障害を必要以上に誇示し、さらに仮病まで使って女の気を引こうとする “いやな奴” である。ちなみに、僕の脳内では柏木の声はこの人によって演じられる。(あと、「下宿屋の娘」 というのが出てくるが、彼女の声はこの人だ。下世話な感じがぴったりだと思う。)

 「中二病」 というのはある時期にかかり、いずれは卒業するものだが、「私」 にとっての邪気眼というべき金閣寺は、彼の内側でどんどん成長・巨大化し、彼の人生の前に立ちはだかる存在となっていく。何しろ女の子とセックスしようとするたびに、金閣寺が現れて不能に陥り、なかなか童貞を卒業できないのである。(目茶苦茶な話のようだが、こういうところが一番面白いと思う。)
 過剰なまでに形容詞や比喩を駆使した美文調の文章と、緻密な構成が本作の特徴である。数ページ程度の短いエピソードが次々に語られているが、一つ一つの挿話が伏線となり、後で必ず何らかの意味を伴って再登場するあたり、小説としての完成度は極めて高く、読みながらだれることがない。
 また、結末の数ページを除いた全てが 「私」 による回想になっているため、主人公の行動や思想が客観化されている点、語り手の 「私」 と語られている主人公の間に適度な距離が保たれている点など、非常に優れている。そして、すべての回想を終え、金閣寺に火を放った(現在の)主人公が最後にとった行動とは? ――というのが本作のテーマとなっているのである。


金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)