太宰のはにかみ

 『走れメロス』(1940年発表) は、メロスと友人セリヌンティウスの二人による友情と正義の物語だが、結末は以下のとおりである。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、王様万歳。」
 ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
 勇者は、ひどく赤面した。


 太宰 治 『走れメロス

 最後の最後になって突然登場する 「ひとりの少女」 とは誰なんだ? この部分のエピソードは本筋に関係ないじゃないか。――太宰の小説を読んでいると、こういうところが気になって仕方がない。
 メロスは友人を裏切りそうになったことを告白し、「私を殴れ」 と言う。セリヌンティウスもまたメロスを一瞬疑ったことを告げ、「メロス、私を殴れ」 と言う。二人は一発ずつ殴り合ってから抱きしめあい、友情を確認する。しかし、よく考えてみれば、二人とも自らの正義に酔い痴れているようにも見える。そこへ挿入される”ひとりの少女”のエピソードは、主人公の持つ偽善に対する痛烈な批判ともとれるし、また、この話を書いた作者自身の“含羞”と理解することもできるだろう。
 中学時代に教科書に載っていた本作を初めて読んだとき、国語の教師がこのような 「一見余計なようだがちょっと印象に残る挿話」 のことを 【太宰のはにかみ】 と呼んでいたのを今でも覚えている。その後、太宰の小説は何冊も読んだけれども、多くの作品に 【太宰のはにかみ】 が登場することに気づいた。いやむしろ、アレが登場すればこその太宰らしさであり、彼の作品を読む上で欠かせない要素となっていることに気づいたのは、さらに後年のことだ。
 【太宰のはにかみ】 は多くの場合、ユーモアのオブラートに包まれている。しかし、その内実はストーリーや主人公に対する批判であったり、作者の本音や自己嫌悪であったりする。作者がはにかむことによって、作品の印象がまるっきり変わってしまうものすらある。こういうところ、太宰の小説は本当に面白いと思う。

 一方、小説の語り手が延々とはにかみ続けるのが、『人間失格』(1948年発表) である。

 恥の多い生涯を送って来ました。


 太宰 治 『人間失格

 本作の大部分は主人公・葉蔵が自己の半生を物語る三つの手記に占められている。実に暗い人生が書かれているが、読み終わると陰鬱なエピソードそのものよりも、語り手自身の自虐・自嘲を伴った文章のほうが印象に残る。葉蔵の生き方があまりにも自意識過剰かつナイーブであり、最初から最後まではにかんでいるような語り口が、どうにも甘ったれているようにしか思えないからである。
 また本作には、もう一人の語り手 「私」 が登場する。「私」 は、「はしがき」 では葉蔵の写真を見つめ、「あとがき」 では葉蔵の手記を読む。これら二つの箇所は、葉蔵の存在を客観的な視点から捉えようとしているようにみえるが、この部分には 「私」 あるいは作者の本音のようなものが書かれておらず、中途半端な感じがする。
 葉蔵ははにかみ屋だが、「私」 ははにかんでいない。『人間失格』 の特異な点であるといえよう。

走れメロス (新潮文庫)

走れメロス (新潮文庫)

人間失格 (集英社文庫)

人間失格 (集英社文庫)