時任家の事件

 結婚後の謙作の家に、立て続けに事件が起こる。妻直子は妊娠し男の子を産むが間もなく病死する。天津に行ったお栄は泥棒に入られて全てを失い帰国して、なぜか謙作たちと同居することになる。謙作がお栄を迎えに行っている間に、直子は彼女の従兄に強姦される。
 後篇のエピソードは一つ一つが丁寧に描かれているし、謙作の苦悩もまた、じっくりと書かれている。だが、何かがおかしい。《不愉快》 にならないのである。

 崩壊はある日突然起こる。 謙作夫婦に二人目の子が生まれた後の梅雨の頃の出来事である。末松は謙作の友人で、後篇では彼の主な話し相手になっている人物だ。

 或(ある)日、前からの約束で、彼は末松、お栄、直子等と宝塚へ遊びに行く事にした。その朝は珍しく、彼の気分も静かだった。丁度彼方(むこう)で昼飯になるよう、九時何分かの汽車に乗る事にした。


 志賀直哉 『暗夜行路 (後篇)』 第四 九

 汽車の出る間近の時刻に、直子が赤ん坊のおむつを替えていて改札に遅れる。ここで、謙作がキレる。

「おい。早くしないか。何だって、今頃、そんな物を更えているんだ」
「気持悪がって、泣くんですもの」
「泣いたって関(かま)わしないじゃないか。それよりも、皆もう外へ出てるんだ。赤坊(あかんぼ)は此方(こっち)へ出しなさい」
 彼は引(ひっ)たくるように赤児を受取ると、半分馳(か)けるようにして改札口へ向かった。プラットフォームではもう発車の号令が消魂(けたたま)しく鳴っていた。
 (中略)
 汽車は静かに動き始めた。彼は片手で赤児をしっかり抱き〆ながら乗った。
「危い危い!」駅夫に声をかけられながら、直子が馳けて来た。汽車は丁度人の歩く位の速さで動いていた。
「馬鹿! お前はもう帰れ!」
「乗れてよ、一寸(ちょっと)摑(つか)まえて下されば大丈夫乗れてよ」段々早くなるのについて小走りに馳けながら、直子は憐みを乞うような眼つきをした。
「危いからよせ。もう帰れ!」
「赤ちゃんのお乳があるから……」
「よせ!」
 直子は無理に乗ろうとした。そして半分引きずられるような恰好をしながら漸く片足を踏台へかけ、それへ立ったと思う瞬間、殆(ほとん)ど発作的に、彼は片手でどんと強く直子の胸を突いて了(しま)った。直子は歩廊へ仰向けに倒れ、惰性で一つ転がり又仰向けになった。
 (中略)
 直子が仰向けに倒れて行きながら此方(こっち)を見た変な眼つきが、謙作には堪えられなかった。それを想うと、もう取りかえしがつかない気がした。

 ここへ来て、突然の暴力行為である。長編小説 『暗夜行路』 はこれからクライマックスへ突入していくのだが、作者は執筆を何度も中断してしまう。大正10年に雑誌連載を開始した本作が完結したのは昭和12年。実に16年後のことであった。