謙作の結婚

 謙作は京都に一人住むが、近所の家の軒先で見かけた女性に一目惚れする。東京でずっと同居していたお栄は、怪しげな親戚の女とともに中国は天津へ働きに行ってしまったところだ。彼はまたしても兄に相談し、あれこれ画策の上、見初めた女性直子に接近する。謙作の兄には人脈がある。直子の親族に対して、身分だの権力だのありとあらゆる手段を用いて積極的に近付くのだが、謙作自身は何の行動も起さない。うまく事は運び結婚に至るのだが、なんだかずるいやり方である。
 以下は謙作夫婦が友人たちと家で花札で遊んだ後、友人を送った帰り道の場面。謙作は花札のときに直子がずるをしたと思い込んでいる。

 「猾(ずる)いは悪い」謙作は思った。「悪い事は大概不快な感じで、これまで自分に来た。が、今、自分は気程の不快も悪意も感じていない。これは不思議な事だ」と思った。彼には堪(たま)らなく直子がいじらしかった。彼にはその事があって、反(かえ)って嘗(か)つて感じなかった程に深い愛情を直子に感じていた。
 彼は黙って直子の手を握り、それを自分の内懐(うちふところ)に入れてやった。直子は媚びるような細い眼つきをし、その頬を彼の肩へつけ、一緒に歩いた。謙作は何かしら堪(ひど)く感傷的な気持になった。そして痛切に今は直子が完全に自分の一部である事を感じた。


 志賀直哉 『暗夜行路 (後篇)』 第三 十四

 見合いの席で顔を合わせるまで一度も相手と口をきいたことがない、というような結婚は、昔はごく普通であったと聞く。しかし、そんな結ばれ方をしておいて、結婚後間もなくこんなに甘ったるい関係を築くことが出来るものだろうか。ちょっと非現実的ではないか。
 「後篇」 の前半はストーリー的にはやや単調な部分だが、挿入されるエピソードは面白いものが多く、文章も安定して読みやすくなっている。まだこの先200ページくらいあるので、のんびりと読むことにしよう。