大山へ
幸い、直子の怪我はひどくはなかった。しかし、彼女の心の傷は深く、謙作もまた自身を持て余している。
彼は妻に別居を申し出る。鳥取の大山(だいせん)の麓にある禅寺でしばらく修行の心積もりである。
「……なまじ都の風が吹いて来て、里心がついては面白くない。そう云う意味で、なるべく用事以外、お互に手紙のやり取りはよそうじゃないか」
「ええ。……それでも若し貴方に書く気がおでになったら下さればいいわね。若しそう云う気におなりになった時には」
(中略)
「お前は俺の事なんか何(なん)にも考えなくていいよ。お前は赤ちゃんの事だけ考えていればいいんだ。俺も赤坊(あかんぼ)が丈夫でいると思えば、非常に気が楽だよ。迷わず成仏出来ると云うものだ」
「亡者ね、まるで」と直子は笑い出した。
志賀直哉 『暗夜行路 (後篇)』 第四 十一
夫婦の置かれている状況は深刻なはずなのだが、二人の会話は明るい。特に、謙作の言葉が軽いのである。こうして、彼は大山へと旅立って行く。