大江健三郎 『不意の唖』

 外国兵を乗せたジープが、谷間の村へやって来た。外国兵たちが村の子供等と川で水浴びをしている時、一緒について来た通訳の男の靴が、何者かに盗まれる。靴は川に流されたのではないかと言う者もいたが、周囲を探したところ、草むらの中から鋭利な刃物で切り取られた彼の靴紐が見つかった。
 通訳は怒り狂い、主人公の父親である部落長に向かって言う。

「お前の村の人間に盗人がいるんだ、それは誰かお前には分っているんだろう? そいつに白状させてくれ」
「おれには分らない」と父親はいった。「この村で盗みを働いたものはいない」
「嘘をつけ、おれが騙されるとでも思うのか」と口穢く通訳はいった。「軍の備品を盗んだ奴は銃殺されても仕方がないぞ、それでいいのか?」


 大江健三郎 『不意の唖』

 通訳による捜索は執拗に続き、彼を黙殺しようとした部落長は外国兵に射殺されてしまう。やがて、村人たちによる陰惨な復讐が始まる……。
 『不意の唖』 は昭和33年に発表された短編小説。わずか20ページの小品だが、起承転結のはっきりしたストーリーをそなえている。しかし、権力対反権力、占領軍対村人、暴力対暴力という二項対立にのみ終始しており、全く感動しない。『飼育』 と比べてみて感じるのは、結末の直前あたりで主人公の少年が登場しなくなってしまう点である。観念の客観化・相対化に至らず、対立と抗争の次元に留まっているのが残念だと思う。