大江健三郎 『人間の羊』

 冬のはじめ、夜ふけのバスの車内で、酔っ払った外国兵たちが日本人乗客に絡み始める。外国兵はナイフをかざし、後部座席の乗客と運転手の下半身を露出させ、彼らの尻を叩き、笑いながら歌う。

 羊撃ち、羊撃ち、パン パン
 と彼らは熱心にくりかえして訛りのある外国語で歌っていた。
 羊撃ち、羊撃ち、パン パン


 大江健三郎 『人間の羊』

 車掌は無事脱出。その後、外国兵たちもバスから降り、乗客は解放される。(外国兵の連れの女と車掌以外、女性は描かれていない。)
 被害にあった 《僕》 は疲れ切っていた。早く家に帰りたい。だが、家で待っている母親や妹に、この屈辱を知られたくはない。そんな 《僕》 に、バスに同乗し一部始終を目撃していた一人の教員が、しつこくまとわりついてくる。教員は言う。外国兵の暴行を見過ごすわけには行かない。警察に届けるべきだ。告訴しろ。僕が証人になる。君だけは泣寝入りしないで戦うだろう?

 ねえ、君、と彼は訴えかけるように切実な声でいった。誰か一人が、あの事件のために犠牲になる必要があるんだ。君は黙って忘れたいだろうけど、思いきって犠牲的な役割をはたしてくれ。犠牲の羊になってくれ。

 教員の執拗な説得は延々と続く。しまいには脅迫に近いところまでヒートアップしていく彼の言動は、当初の正義漢ぶりをとっくに通り越して、恐怖の対象にまで変貌している。
 『人間の羊』 は昭和33年に発表された短編小説。今の言葉でいうと 《セカンドレイプ》 をテーマにした作品である。初期の大江作品に描かれる進駐軍の兵士は、いささかステレオタイプにされ過ぎている感があるのは否めない。一方、後半に登場する教員の狂気じみた言動は、現在でも社会問題として取り上げられる性犯罪事件(および司法、メディア等によるセカンドレイプ)を容易に連想させる。全く今日的なテーマを描いた好編だと思う。