谷崎潤一郎 『神と人との間』

 医学士穂積は、芸者上がりの朝子に惚れていたが、友人の文学者添田に彼女を譲る。朝子と結婚した添田にはほかに愛人がいて放蕩三昧。そればかりか妻に暴力をふるい、全く家庭を顧みようとしない。穂積は朝子への思いが止まず、添田を憎むが、朝子の態度は煮え切らないまま、双方からいいように使われてしまうようになる。やがて、穂積は添田を毒殺し、朝子と結婚するが、彼もまた服毒自殺する。
 以下は、穂積の朝子に宛てた遺書の一節。「道ちゃん」 は添田との間に生まれた朝子の連れ子である。

お前は僕を前から愛していたと云う。そして今では添田君の死を悲しむ心はなくなったと云う。道ちゃんよりも私を愛してくれると云う。それらの言葉で私は慰められないばかりか、一層自分の罪に戦(おのゝ)く。私はお前が、昔の清い朝子にならずに、次第に私と同じような悪魔になって来るような気がする。添田君の妻でいた時の方が、まだしも今より貞淑だった、純真だったと思われてならない。お前がいつ迄もいつ迄も、添田君のことを忘れずにいてくれた方が、私は却って慰められる。………こうなったのは実に意外だ、こんな事になる筈ではなかった、それもお前が悪いのではない、みんな私が、………私がお前を堕落させたのだ。


 谷崎潤一郎神と人との間』 二十

 三人の男女の熾烈な関係を描いた小説である。好きな女性を友人に譲る前半部は、夏目漱石 『それから』 を思わせるし、結婚した主人公が自殺する結末は 『こころ』 を連想させる。だが、添田という強烈で悪魔的なキャラクターは谷崎ならではのものだ。主人公穂積は元々純情で弱気な性格の人物として描かれているが、三角関係が長引くに連れて次第にマゾヒスティックになっていく。三角関係は三角形だからこそ成立する、というのは逆説だが、憎悪、嫉妬、羨望といった感情を伴い、それ故に高められた恋愛感情ならば、友人の妻を奪ったとしても満足は得られないというのが、穂積の置かれた立場であり心情なのだろう。


谷崎潤一郎 - Wikipedia
 『神と人との間』 は大正12〜13年に発表された長編小説。谷崎、彼の最初の妻千代、佐藤春夫の三人をモデルとした作品で、添田(谷崎)、朝子(千代)、穂積(佐藤) がそれぞれ作中で対応しているのは明らかである。作者自身をモデルとした添田が悪役として登場しているが、その過剰な露悪ぶりはまさに悪魔的だ。また、作品全体を穂積の視点で描き、彼の心理描写を中心に話を進めている点がユニークであり面白い。ヒロイン朝子の性格が一貫していないように思えるなど、やや物足りなさも感じる点もあり、同じ3人をモデルとした 『蓼食ふ虫』 には及ばないものの、これはこれで十分面白いと思った。


潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)

潤一郎ラビリンス〈12〉神と人との間 (中公文庫)