谷崎潤一郎 『青塚氏の話』

 映画監督中田は一人の中年男に出会う。男は、中田の妻であり女優の由良子が主演する映画は全て、何度も見ており、彼女の身体の隅々まで覚えているのだと云う。

「君は由良子嬢の体に就いては、此の世の中の誰よりも自分が一番よく知っている積りなのかい?」
「だってそうでしょう、長年僕が監督している女優だし、それに何です、御承知かも知れませんが、あれは僕の女房なんです。」
「左様、君は由良子嬢の亭主だ。そこで僕は、亭主と僕と孰方(どっち)が由良子嬢の体の地理に通じているか、そいつを確かめてみたいと云う希望を持っているんだよ。こう云うと君は、そんな物好きなことを考えるなんて不思議な奴だと思うだろうが、此処に一人の人間があって、その男はまだ、君の奥さんを一度も実際には見たことがないんだ。そうしてただフィルムの上で長い間研究して、君の奥さんの体じゅうの有らゆる部分を、肩はどう、胸はどう、臀はどうと云う風に、それをはっきり突き留めるためには或る場面のクローズアップを五たびも六たびも見に行ったりして、今では既に眼をつぶっても頭の中へその幻影が浮かび上る程、すっかり知り盡してしまったとする。……」


 谷崎潤一郎青塚氏の話』

 男の話は薄気味悪いのだが、中田にとってはどうにも気になってしかたがないものであった。中田は男に誘われ、彼の屋敷に連れて行かれるのだが、そこで見たものとは……!?
 『青塚氏の話』 は大正15年に発表された短編小説。ビデオやパソコンの普及した現代においては、自分の好きな場面を何度も再生したり、拡大して眺めたりするのは簡単に行うことが可能である。しかし、真っ暗な映画館で、また暗室などを用いてこれらを実行するのは、金や手間がかかるばかりでなく、気味が悪い。そしてさらに、男が屋敷で夜な夜な行っている変態行為は、フェティシストを自称する僕でさえ引いてしまうものだ。
 題名に反して、この小説の本文には 《青塚氏》 という名前はどこにも書かれていない。普通に考えれば、中田が出会った中年男が青塚氏を指すということになるわけだが(中公文庫巻末解説にもそう記されている)、果たしてそれだけなのだろうか。中田が中年男に出会った顛末は、中田が病死した後に発見された彼から妻に宛てて書かれた遺書の中に記されていたものなのである。本作の8割以上が遺書の中身なのだが、冒頭数ページは別の 《語り手》 によって、二人の経歴と由良子が遺書を読み始めるまでのくだりが描かれている。そしてこの 《語り手》 は、物語の最初のほうで以下のように述べている。

……彼女は最早や監督の愛護に依らないでも、或る一定のファンの間には容易に忘れられない地歩を築いていた。要するに映畫の女優なんて、藝より美貌と肢体なのだ。どんな筋書の、どんな原作でも同じことで、笑う時には綺麗な歯並びを見せびらかすこと、泣く時には涙で瞳を光らせること、活劇の時には着物の下の肉の所在が分るようにすることを、忘れないで芝居していればいいのであった。


 谷崎潤一郎青塚氏の話』

 この 《語り手》 が実は 《青塚氏》 であるとしたら……。ますます不気味な物語なのである。