重松清 『疾走』

 知り合いの牧師が、「人生の幸せと不幸せをトータルすると、プラスマイナスゼロになる」 というようなことを言っていたのだけれど、そんなことはないんじゃないかと思う。
 旧約聖書ヨブ記』 の主人公ヨブは、神の試練にあい、これでもかというほどの不幸を抱えている。最後には神の前に懺悔し、幸せを取り戻したと書かれているのだが、最初に死んだ 七人の息子と三人の娘が帰ってくるわけではないのだ。では、ヨブにとっての幸せとは何か。それは 『ヨブ記』 に書かれたテキスト=彼の人生そのものなのではないか。聖書の中に名を残すことによって、彼の人生は初めて意味を持つに至ったのではないか。

 『ヨブ記』 の主人公を1980〜90年代の日本を舞台によみがえらせた重松清 『疾走』 (2003年発表)は、ひたすら重苦しい小説だ。いじめ・差別・暴力・セックス・裏切りといったあらゆる身体的・精神的苦痛を伴う描写が延々と続くのである。田舎の小さな街に生まれ育った主人公シュウジは、ヨブさながらに次々とひどい目にあう。果たして、彼の生に意味はあるのか。死によって、生を意味づけるのはアリなのか。今の僕には答えが出せずにいる。

 田舎の街の 「沖」 と呼ばれる地区に、教会がある。そこの 「神父」 が重要な役回りを演じているのだが、なんだかおかしい。教会というものは、元々単独で建てられたりするものではなく、必ず母体となる組織(教団・教派)が存在するはずのものである。そういった背景が存在しえないようなこの教会の状況は、現実のキリスト教会とはかけ離れている。
 彼はもぐりの 「神父」 ではないのか。別にもぐりであっても構わないのかもしれないが、「神父」 と薄倖の少女エリはデキている、と考えないと、辻褄のあわないストーリーになっているのは確かである。
 とまあ、読みながら、読み終わってから、生理的・心理的に不愉快になってしまう小説なのだけれど、途中でやめることもできないような不思議な本だと思った。

疾走 上 (角川文庫)

疾走 上 (角川文庫)

疾走 下 (角川文庫)

疾走 下 (角川文庫)