島崎藤村 『春』
島崎藤村の長編小説 『春』 が朝日新聞に連載されたのは、明治41(1908)年のことである。同じ年の新聞連載小説は、『春』 の前に夏目漱石の 『坑夫』が、あとに 『三四郎』 が掲載された。奇しくも青春をテーマにした小説の当たり年だったのである。百年を経た現在、これらの作品を我々が書店で手にすることができることに驚く。
『春』 に描かれるのは明治25〜29年という年代の出来事であり、藤村の21〜25歳頃の経験をもとに書かれた自伝的小説とされている。主人公・岸本捨吉は藤村自身がモデルであり、他の登場人物も名前などは変えられているが、ほとんど実在の人物をモデルとしている。もちろん、事実ばかりでなく作者による創作が多く書かれているのだろうが、そのことは本作の価値を高めることはあっても下げることにはならない。
さて、ストーリーは主に以下の三つのパートが絡み合う構成となっている。
1. 岸本と勝子の恋愛
2. 友人であり先輩である青木の生と死
3. 岸本の 「家」 を巡る問題
勝子との恋愛
岸本は彼の教え子の女学生・勝子と恋に落ちる。二人は同い年である。勝子には親の決めた許婚がいる。岸本は女学校の講師(今でいうアルバイトみたいなものか?)を勤めていたが、恋愛問題で悩み、長期にわたって家出状態となり、職を失っている。二人は両想いなのに、気持はすれ違ったまま別れてしまう。許婚と結婚し函館に住んだ勝子は、間もなく死ぬ。この恋愛パートは非常に物足りなく感じる。恋に悩んで家出して失職、というのもよくわからない理屈だが、なによりも勝子のどこに惹かれたのか、さっぱりわからないのである。他にも若い女性が登場するのだけれど、それぞれが個性に乏しく、どの女性も似たりよったりなのだ。
青木の生と死
青木のモデルとなったのは、詩人・評論家の北村透谷である。本作に描かれる彼の存在感は圧倒的で、主人公をしのぐほどのものだ。作中、青木がシェークスピアやバイロンの詩、あるいは自作の新体詩などを大きな声で吟ずる場面が何度も描かれているのだが、どんな調子のものだったのだろうか。漢詩や和歌中心の詩吟とは様子が異なるようだし、「叫ぶ詩人の会」 みたいなものとも違うだろう。こういった音声表現ばかりは、文章から読み取ることのできないニュアンスがあるのだろうと思う。
青木の死後、結婚前に彼から送られた手紙を、妻・操が読み返す場面がある。(透谷が実際に書いた手紙をほぼそのまま引用しているらしい。)10ページもある長文に自分の生い立ちと人生観が書かれている一種の自己紹介文である。、文語体(候文ではない)で書かれているが、非常に読みやすく面白い。適度なユーモアとちょっとクレイジーな面があり、しかも感動的である。
操は手紙を読み終わり、以下のように独白する。
手紙には、一人の天才芸術家の苦悩が綴られていたのだが、そのことに気づいたとき、彼はすでにこの世にいなかったのである。この長い手紙は、青木がまだ一生の方向に迷っている頃書いたものである。読んで行くうちに、ある処は微笑(ほほえみ)を、ある処は哀憐(あわれみ)の情を、又あるところは言うに言われぬ恐怖(おそれ)の念を操に起させた。
「この時分から、父さんは狂人(きちがい)だったんだよ」
と操は独語(ひとりごと)のように繰返した。
「家」 を巡る問題
本作の後半は、ほとんど岸本の 「家」 を巡る問題に終始する。岸本が生まれ育ったのは木曽の宿場町の三百年を数える旧家だが、明治維新後、宿場が衰えるとともに没落する。父は精神を病み座敷牢で死去。四人兄弟の長兄は詐欺罪で収監中(後に上告後無罪となる)。次兄は清へ渡り音信不通(日清戦争の時代である)。三兄ははっきり書かれていないが、おそらく女郎買いの挙句に性病を患い、家でぶらぶらしている。のんきに家出して諸国を渡り歩いてきた末っ子の捨吉の身に、家族を養う責任が被さってきたのだ。
いろんな出来事が一度に起こるため、かなり駆け足の感はあるが、職探しの絶望の中で、幼少の頃のこと、青年時代のことを岸本が回想する場面は、読者に静かな感動を与える。
最後に、彼は仙台に教職を得て出発する。時期は八月の末。上野を出た汽車は、豪雨の中を北へ向かう。
青春の終わりは決して春爛漫ではないのだ。「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」
藤村が処女詩集 『若菜集』 を出版したのは、彼が仙台に赴任した直後のことであった。
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