夏目漱石 『我輩は猫である』

 我輩は猫である。名前はまだ無い。

という書き出しで有名な、夏目漱石の最初の小説である。(1905〜1906年発表)
 初めてこの本を読んだのは十代の頃だが、奇天烈な登場人物たちの落語風の会話が面白かった。三十代に再読したときは、地の文、即ち「我輩」による圧倒的な語り口に大笑いした。誇張なしに言うが、いずれも電車の中で読みながら、声を出して笑ってしまい、大いに恥ずかしかったのを記憶している。

 『我輩は猫である』 は漱石の諸作品の中で、ユーモア、風刺、皮肉といった点がずば抜けた特徴になっている。全編を通じたストーリーのようなものはほとんどないといってよく、細かなエピソードが次々と語られる形式となっている。しかし、一つ一つのエピソードは過剰に饒舌で、ときに脱線しながら続いていくため、だらだらと長い印象を受ける。もっとも、この「長ったらしい」という点については、「我輩」 自身も登場人物たちも自覚しているようで、そういう科白が随所に見られるのだけれど。

 主人公の 「我輩」 が、初めて飲んだ酒に酔い水甕に落ちて溺れ死ぬ、というのが本作の結末である。なんともやるせない、投げやりな終わり方だが、続編はもう書かないぞという作者の宣言なのかもしれないと思う。
 もっとも、猫の死に関しては、後日談が書かれている。小品集 『永日小品』(1909年発表)に収められた 「猫の墓」 である。

 猫の命日には、妻がきっと一切(ひとき)れの鮭(さけ)と、鰹節(かつぶし)をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥(たんす)の上へ載せておくようである。


夏目漱石 - 『永日小品』より「猫の墓」

 「猫の墓」 には、漱石が飼っていた野良猫の死ぬ前後の様子が描かれているが、この猫が 「我輩」 のモデルになったらしい。また、『永日小品』 には、『我輩は猫である』 にも書かれている“泥棒に入られた話”を別の視点から書いた作品も収められている。おそらく漱石の持ちネタなのだろうが、饒舌な笑い話ではなく、落ち着いた筆致で書かれているという違いがある。

 面白い小説は、百年経っても面白い。
 『我輩は猫である』。
 何度も読み返したい一冊である。


吾輩は猫である (新潮文庫)

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