夏目漱石 『草枕』
『草枕』のあまりにも有名な冒頭の一節である。有名ではあるのだが、わかりにくい。難解というほどではないが、わかったようなわからないような書き出しである。しかも、こういう調子で、抽象的な言葉が延々数ページにわたって続いて行く。山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
三十歳の主人公 「余」 が山中を旅しながら芸術を志すという話だが、この時点では何が言いたいのかさっぱりわからない。
「余」 に心得のある芸術とは、絵画、俳句、漢詩であり、これらの芸術について 「余」 はひたすら語る。しかし、自ら画工と称しているにも関わらず、作中では一幅の絵も完成しない。また、作中で詠まれる俳句は下手である。俳句を書き留めた写生帖が何者かによって添削されていたりする。(漢詩については不明なのだが、おそらく似たようなものではないだろうか。ご存知の方、ご教示ください。)
要するに、自称芸術家の彼は作品と呼べるものをほとんど生み出さないのだ。彼の存在は、芸術について抽象論を述べてばかりいる点において、「我輩」が猫の分際で宇宙の真理について語るのと同列なのである。
さて、ここに謎の美女、那美が登場する。
彼女は何やら訳有りで嫁ぎ先から出戻った女性であり、旅先の温泉郷では村中で様々なことが噂されている。(しかも、「余」 の目の前に初めて姿を現すのは、温泉の中であり、いきなりその裸の肉体が描写される。)ストーリーは一変、読者の視線は那美とその周辺の人々を巡る出来事へと注がれる。しかし、主人公兼語り手の 「余」 が物語の進行を妨害し、動き始めようとする筋書きは何度も中断してしまうのである。
旅の宿で、「余」 は英語で書かれた本の適当に開いたページを読んでいる。そんな彼に、那美は尋ねる。
二人の会話は続く。「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、仕舞まで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。仕舞まで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
ここへ至って、「余」 は 「筋なんかどうでもいいんです」 と言って、小説のストーリーを否定してしまうのだ。小説の主人公が小説について語り、その通りに小説が出来上がっている。メタ小説、メタ文学といわれる手法である。「全くです。画工(えかき)だから、小説なんか初から仕舞まで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなると猶面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初から仕舞まで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤(おみくじ)を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
さらにその後、那美を巡る物語は何度も途絶し、「余」 の自分語りがうるさいくらいに挿入される。
「筋なんかどうでもいいんです」 と語られているとおり、「余」 が語っているのは筋=物語ではなく、その場面における絵画的な光景にすぎないからである。
結末は那美達一行が、日露戦争中の満州へと出発する彼女の元夫を停車場(ステーション)で見送る別れの場面である。
全編を通じてのクライマックスであり、感動の場であるはずなのだが、以下のように結ばれている。
「余」 は何かを勝手に成就させたようだが、読者は宙ぶらりんに投げ出されてしまっている。茶色のはげた中折帽の下から、髯だらけな野武士が名残り惜気に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合せた。鉄車はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐(あわ)れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画(え)になりますよ」
と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。
わけのわからなかった第一章を再読すると、最後に 「余」 が成就させたものが何だったのか判る仕組みになっているので(このあたり、極めて上手い仕掛けだと思う)、小説として破綻はなく、きちんと完成されているのだが、読者は他の登場人物とともに置き去りにされているのである。
『草枕』 が発表されたのは、明治39年(1906年)、『我輩は猫である』 が雑誌連載中のことである。
本作を、当時の流行であった写生主義、自然主義文学に対する強烈な皮肉と捉えるのは、穿ちすぎだろうか。
近現代の小説においては、メタ小説、メタ文学というのはさほど珍しくいものではない。しかし、当時、このような作品が書かれたというのは驚くべきことだと思う。そして、漱石のこの名作は百年を経た今日読んでも、新たな驚きを読者に与えるのである。
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