島崎藤村 『新生』 を巡る批評と個人的な感想

 芥川龍之介の遺作、『或る阿呆の一生』(昭和2年)に以下の一節がある。

殊に「新生」に至っては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な偽善者に出会ったことはなかった。


 芥川龍之介或る阿呆の一生』 四十六 嘘

 同年、島崎藤村は芥川の追悼文を著し、上の箇所を引用しながら、次のごとく述べている。

……ここに引いた『新生』とは私の『新生』であるらしく思われる。私はこれを読んで、あの作の主人公がそんな風に芥川君の眼に映ったかと思った。
 知己は逢いがたい。『ある阿呆の一生』を読んで私の胸に残ることは、私があの『新生』で書こうとしたことも、その自分の意図も、おそらく芥川君には読んでもらえなかったろうということである。私の『新生』は最早十年も前の作ではあるが、芥川君ほどの同時代の作者の眼にも無用の著作としか映らなかったであろうかと思う。しかし私がここで何を言って見たところで、芥川君は最早答えることのない人だ。唯私としてはこんなさみしい心持を書きつけて見るにとどまる。でも、ああいう遺稿の中の言葉が気に掛って、もっと芥川君をよく知ろうと思うようになった。


 島崎藤村芥川龍之介君のこと」

 反論しようと思っても、相手はすでにこの世にいない人である。それでも、藤村は芥川の(言葉が少なすぎて意図を計りかねるものながら)声を正面から受け止め、哀惜の念を表していると感じる。
 この二人のやりとりは有名らしく、『新生』 について書く人は必ず引用するほどになった。以下は亀井勝一郎の著書から。「自殺者」 とはもちろん芥川龍之介のことである。

……自殺者というものは困るもので、最後の切札でものを言ふ。作家としての妄執から離れ去らうとした人の眼に、その存在がすでに虚僞とみえてゐたことは明らかだ。虚構は罪惡である。作家のいかなる懺悔も信じるに足らないと。彼は藤村の裡なる惡魔が、どうかして生きたいといふ求道の亡者に假装してゐるのを、おそらく嫌惡した。或は嫉妬したかもしれない。
(中略)
……藤村は處女姦淫の罪を犯した。それを自覺した。しかし彼にとって重要であつたのは、「懺悔」の名においてそれを描くことであり、作家以外の何ものでもありたくないといふ「自由」に執着することによつて二重の罪を犯した。宗教的に云へばである。藤村にとつてそれが作家としての宿命であつた。芥川の眼はむろんそこまでは届いてゐない。たゞ「老獪な僞善者」といふ言葉は、まさにそのとほりなので、「新生」には辯解の餘地はあるまい。


 亀井勝一郎島崎藤村論』(新潮社) より 「旅人と市隠」 (昭和28年)
強調部は原典では傍点。

 誰もかれもが、藤村は有罪である、という意見を表明しているようにすら思えてくる。一体いつから読者は裁判官になったのだろうか。小説の作者が意図せずにこのような状況を招いたのだとしたら、その原因は小説そのものにあるといっても良いかもしれないのだろうけれど。
 一方、平野謙の批判は作者のみならず、登場人物の人格にまで及ぶ。

 『新生』では節子はひたすら忍従し、献身する一種聖女めいた俤(おもかげ)を持つ女性として描かれているが、おお根のところ、ありふれた凡庸な婦人にすぎない。どんな女でもそなえている女性特有のリアリズムと虚栄心と負け惜しみとをつつましやかなオブラートにつつんだインテリ婦人にすぎなかった。……(中略)……女は誰でも最初の男性には特別な感情を持ちつづけるものだし、したがって、捨吉があれほど苦しんだ叔父、姪の関係なぞも、節子ははじめから苦もなく飛びこえていたまでのことである。


 平野謙島崎藤村』(岩波現代文庫) より 「新生」(昭和21年)

 小説の登場人物とモデルとなった実在の人物を混同しているように思われる部分もあるが、そのことについては平野の著書に書かれているので、ここではひとまず措く。が、それにしても平野は、小説のヒロインに一体何を求めているのだろうか。恋愛小説の女主人公が 「凡庸な婦人」 であってはならないとでもいうのだろうか。
 節子を中心に読むならば、『新生』 は、平凡な一人の女性が叔父と恋愛関係に陥り、その後数奇な運命を重ねてユニークな人生を歩みつつ精神的な成長を遂げる物語である。それゆえにこそ、この女主人公に共感を覚えるのではないか。


 上に引用したいくつかの批評は、いずれも昭和の前半という時代に書かれたものだ。さすがに古い、と言わざるを得ないところもあるだろう。だが、小説 『新生』 は決して古びることがない。現在、絶版状態のようだが、もっと現代人に読まれるべき作品であると思う。
 上に 「恋愛小説」 と書いたが、『新生』 にはそれ以外に、主人公の宗教的苦悩、パリの生活と文化、家族の離合集散、父子家庭の困難などといったさまざまな要素が含まれている。個人的には、節子の成長を描いた 「恋愛小説」 の部分が飛びぬけて面白いと思うが、これもまた現代人の発想なのかもしれない。また、百年近く経ってしまったために、よくわからない箇所も多い。しかし、そういうわからない部分も含めて、一つの時代の側面を描き切った小説として、これからも読まれ、語られていってほしいと思うのである。