聖書の翻訳その他もろもろ

わが奇とするもの三あり否な四あり - 蟹亭奇譚
isozakiaiの呟き置き場(旧:愛のカラクリ、AI日記) Traduttore,traditore(ほんやくしゃはうらぎりもの)モンダイなどなど
 ものすごく濃ゆい言及をいただいたので、わくわくどきどきしながら記事を拝読しました。うまく考えがまとまらないのですが、思ったことを断片的ながら書いてみたいと思います。

島崎藤村キリスト教

 島崎藤村明治21年、17歳のときにキリスト教の洗礼を受けています。その後、明治26年に教会を退籍し、生涯、キリスト教信仰に戻らなかったとされていますが、文学作品の中では聖書の引用(暗示的なものも含めて)が非常に多く用いられ、その傾向は処女詩集 『若菜集』 から晩年の 『夜明け前』 まで続いています。(『若菜集』 における聖書の引用のしかたはかなり面白いので、そのうち詳しく書いてみたいと思っています。)

旧約聖書について

 ユダヤ教聖典である 『旧約聖書』 は大部分がヘブライ語(一部はアラム語)で書かれたものです。ラテン語訳はキリスト教の時代になってからのものですね。僕が 『箴言』 の当該個所について、「原語ではどうなっているんだろう?」 と書いたのはもちろんヘブライ語を指しています。『箴言』 の大部分は詩歌(韻文)ですから、「三つ」 だの 「四つ」 だのといったレトリックには音韻的なものが隠されているのではないかと思ったのです。でも、ヘブライ語について全く知識がありませんので、文献を探しただけでは理解できないかもしれませんね。
 それから、五つめ(姦通云々)が強調されている件ですが、これは藤村の文章に関しても同様で、僕が省略した後半の 「わたしたちの辿つて行く文學にも路と名のついたものがない。路と名のついたものは最早わたしたちの路ではない。」 が藤村の主意であることは言うまでもありません。

新共同訳聖書について

「新共同訳」は、時代に対応してなのか(?)、 姦通の主体(主語)が女性であるということをぼかし「わざと曖昧に訳されている」ようです。
姦通罪って昔は女性にしか適用されませんでしたもんね。


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 新共同訳聖書は、いわゆる 「差別用語」 や 「不快語」 を徹底的に排除した翻訳で有名です。しかし、聖書そのものが内包する差別性・残虐性を曖昧にし、隠蔽するような翻訳であるとしたら(原語を読んでいないため仮定にすぎませんが)、ちょっと問題があるのではないでしょうか。

1933年の事件

岩波書店の『文学』創刊は4月1日

滝川事件、鳩山文相が京大に申し入れしたのが4月22日だか5月だか(本よんだわけじゃなくてネットの情報なのでわかりません。ごめんなさい)

ん〜、惜しかった。
順番が逆のほうが、かつてクリスチャンであり、adulterousな藤村を主人公にした小説のネタとしては説得力があったのに!!


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 時期的にいうと、藤村の 「路」 に関連しそうなのは、1933年2月20日小林多喜二が逮捕され、拷問・虐殺された事件のほうが近いようですね。(小林多喜二 - Wikipedia 参照。)
 事件の前後はともかく、政府・軍部による思想弾圧という背景があって、藤村が 「路」 を書いたのは確かだといえそうです。
 ちなみに、藤村の小説 『嵐』 (大正15年発表) には、主人公の三男がプロレタリア思想に傾倒し、甘粕事件に対して怒りをぶちまける場面が書かれています。


 結局、まとまらなくなってしまいました。でも、面白い方向に話が発展しましたし、いくつかは今後の宿題になりそうです。
 磯崎愛さん、ありがとうございました。