わが奇とするもの三あり否な四あり

 古い言葉に、この世にめずらしく思われるものが三つある。いや、四つある。空に飛ぶ鷲の路、磐(いわ)の上にはう蛇の路、海に走る舟の路、男の女に逢う路がそれである。……


 島崎藤村 「路」(岩波書店の雑誌『文学』の創刊に寄す)*1

 「三つある。いや、四つある。」 と、先に述べたことをすぐに否定して、後のものを強調するレトリックが洒落ていると思うのだが、ここに記されている 「古い言葉」 とは旧約聖書箴言』 である。冒頭の一文は、藤村自ら口語に訳したのだろうか。こういう表現は上手いなあと思う。

 わが奇(くすし)とするもの三あり否な四あり共にわが識ざる者なり
 即ち空にとぷ鷲の路 磐の上にはふ蛇の路 海にはしる舟の路 男の女にあふの路これなり
 淫婦の途も亦しかり 彼は食ひてその口を拭ひ われ惡きことを爲ざりきといふ


 旧約聖書(文語訳) 『箴言』 第30章18〜20

 文語訳聖書にも 「三あり否な四あり」 と書かれている。しかし、よく読むと、四つではなく五つ書かれているのである。『箴言』 第30章の他のパラグラフには、いろいろなものが四つずつ並べられているのだが、ここだけ五つなのだ。
 一方、新共同訳聖書(1987年出版)ではだいぶ様子が違ってくる。

 わたしにとって、驚くべきことが三つ
 知りえぬことが四つ。
 天にある鷲の道
 岩の上の蛇の道
 大海の中の船の道
 男がおとめに向かう道。
 そうだ、姦通の女の道も。
 食べて口をぬぐい
 何も悪いことはしていないと言う。


 聖書(新共同訳) 『箴言』 第30章18〜20

 三つじゃなくて四つ、という効果的なレトリックが消えていて、そのぶん五つめにあたる 「そうだ、姦通の女の道も」 以降の部分が強調されているような訳し方である。(原語ではどうなっているんだろう?)
 文語訳の 「彼は食ひてその口を拭ひ われ惡きことを爲ざりきといふ」 の 「彼」 とは淫婦(女性)のことを指していると思われる。(1955年版口語訳聖書では、はっきり「彼女は」と訳されている。)ところが、新共同訳では主語が消えており、「食べて口をぬぐい/何も悪いことはしていないと言」ったのが男なのか女なのか、あるいは両方なのかわからない。わざと曖昧な訳し方をしているのかもしれない。
 ちなみに、第30章1節には 「託宣」 と書かれており、上の引用箇所における 「わたし」 とは神を指している。旧約聖書の神は全知ではなかったのである。

*1:島崎藤村 感想集 『桃の雫』 (昭和11年刊)収録。なお、雑誌 『文学』 創刊は昭和8年