島崎藤村 『破戒』

破戒 (新潮文庫)

破戒 (新潮文庫)

元ネタは聖書

 小説を読む楽しみの一つに“元ネタ探し”というのがある。
 島崎藤村の 『破戒』 (1906年発表)には 「聖書」 を元ネタとするエピソードが数多く登場する。藤村は明治学院在学中にキリスト教の洗礼を受けているため、聖書ネタが書かれるのはある意味当然かもしれないのだが、元ネタをリスト化したような文章がネットにあるかと思って検索してみたのだけれど、見つからなかった。
 順不同だがいくつか挙げてみよう。

 小学校教師の主人公・瀬川丑松は被差別部落出身の青年である。彼は同じく部落出身の思想家・猪子蓮太郎のことを 「先輩」 と呼び尊敬している。あるとき、政敵の高柳が丑松を貶めようとして、彼に蓮太郎との関係について問い詰める。ところが、丑松は三度にわたり強く否定してしまう。

いつの間にかあの高柳との問答――「懇意でも有(あり)ません、関係は有ません、何もにも私は知りません」と三度までも心を偽って、師とも頼み恩人とも思うあの蓮太郎と自分とは、全く、赤の他人のように言消して了(しま)ったことを思出した。「先生、許して下さい」こう詫びるように言って、やがて復(ま)た新聞を取上げた。


 『破戒』 第拾四章 (四)


(引用者注)……丑松が読んでいる新聞には蓮太郎のことが書かれており、彼は学校でひとに隠れてそれを読んでいるのだが、このあとすぐに校長に見つかってしまう。

 この箇所は明らかに福音書に書かれている、ペテロがイエスのことを三度知らないと答えたエピソードを下敷きにしている。
 また、丑松が所有する蓮太郎の著書を、わざわざ蔵書印を墨で消してから古本屋に売り払う話は、まるでイスカリオテのユダである。(ここまではおそらく異論はないだろうと思う。)
 さらに、主人公ばかりでなく、悪役の校長は大祭司カヤパを思わせる。決して教育(あるいは信仰)のためではなく、自らの富と権力のために二枚舌を用いる彼の性格は、カヤパそのものであろう。余談だが、この校長の悪役ぶりは本当にすさまじい。コイツに比べたら、同年に発表された 『坊ちゃん』 の狸や赤シャツなど、子供だましみたいなものである。(それにしても、1906年というのはすごい年だったんだな。)
 こういう読み方をすると、本作のクライマックスで、丑松が教え子たちの前に跪き、泣きながら、自分が部落の人間であることを告白した理由――胸を張ってカミングアウトしたわけではない理由――も理解できるのではないか。つまり、彼が泣いたのは、自らの素性を恥じたからではなく、そのことを周囲の人間に嘘をついて隠していた「罪」を告白したからなのである。

エピローグと救い

 しかし、「罪」を告白したからといって、どこかからキリストが現れてすべてを許してくれるわけではない。『破戒』 の作品世界には、そのような意味での神は存在しない。にもかかわらず、本作の結末は意外なほどに明るく、ほとんどハッピーエンドに近い終わり方になっている。
 本作の大部分は丑松の視点で描かれているが、彼が告白を行った後のエピローグに相当する部分は、主に親友・銀之助の視点を中心に描かれ、銀之助たちの奔走によって、丑松の抱えるさまざまな問題が解決されていく。うじうじとした主人公の心情は切り捨てられ、あれよあれよという間に行動が始まり、人生の新たな出発に向けて駈け出していくのだ。(しかも絶望的と思われた恋愛まで成就している!)
 愛と友情が主人公を救ってしまう物語(その代り、当初に抱えていた問題は忘れられている)というわけだが、僕はこのスピード感のある結末部分が一番読みごたえがあると思うし、好きだ。

丑松の決心について

 《彼は部落出身者だけど、教養もあるし人柄も良いんだから差別しちゃだめだよね》 という考え方は、部落差別を肯定する理屈にほかならない。この思想が小説全編を通じて感じ取れるということが、昔から 『破戒』 に対しての主要な批判となっているようだ。この点に関してはまったくそのとおりだと思う。百年前の話なんだから仕方ないよなどと、時代のせいにするべきでない、重要な問題点だといってもよい。
 しかし、丑松が戦った相手は、部落民を差別する社会ではなく、部落出身者であることを 「隠せ」 と教えた父の戒めである。(『破戒』 という題名はこれに由来する。)丑松の思いは、父の戒めから次第に離れ、「せめてあの先輩だけに自分のことを話そう」 と思いつめているところ、当の先輩が政敵の手の者に暗殺されるとともに爆発する。職を失ってもいい、恋する女性に見放されてもいい、嘘をつきながら生きることには耐えられないという彼の決心は百年後の今であっても古くなってはいないのである。

 ひとつだけ。上に 「ほとんどハッピーエンド」 と書いたけれども、素性を隠して生きている叔父夫婦のことは忘れられていて、最終章で数行だけ言及されているのみである。丑松の告白によって彼らの人生にはどういう影響があるのだろう。銀之助は 「その時はまたその時さ」 などと楽観的なことを言っているが、大迷惑を被るのは間違いない。“カミングアウトしないまま生きる自由”はないのだろうか?

 本作は信州北部を舞台として、ある年の10月下旬から12月上旬(旧暦の)というきわめて短い間の出来事を描いている。登場人物はかなり多いけれども、一人ひとりが個性豊かであり、わずか数週間のあいだに実にさまざまな事件が起こり、それぞれの人生を変えていく。晩秋から冬へと美しい自然が移り変わるのと同時に、丑松たちの生きようは変わっていくのだ。(一人だけ全く変わらない人物がいる。こういうユーモアは楽しい。)
 分厚い小説だが、文章のテンポが非常に速く、とんとんと読み進めていくうちに、下手をするとおいてきぼりにされそうになるくらいだ。読み終わったときに、「読んだぞ!」 という実感と 「こういう話だったのか!」 という驚きを味わうことができる。名作である。