樋口一葉と『文學界』の男たち

 『にごりえたけくらべ』(新潮文庫)の巻末年譜に、次のようなことが書かれている。

明治二十二年(一八八九) 十七歳 三月、事業は失敗し破産状態となり、一家は神田区淡路町二丁目四番地へ移った。七月、健康を害した父は、死期が迫ったことを知り、妻子の前途を案じて、渋谷三郎になつ*1と結婚するよう頼んで死んだ。九月、なつは母と妹くにを連れて、債鬼を逃れて虎之助*2のもとに身を寄せるようになった。三郎は、零落した事実を知って、なつとの婚約を一方的に破棄した。

 また、ちくま日本文学全集樋口一葉』 巻末年譜には次の記述がある。

一八九二(明治二十五)年 二十歳
(中略)八月、渋谷三郎が来訪。九月、渋谷三郎を聟に世話しようという話を、母・たき断る。

 渋谷三郎のちの阪本三郎は、自由党の政治家。大正初期に秋田県知事、山梨県知事をつとめた人物である。
 さて、時代はうつって大正11年のこと。山梨県大藤村*3という所に、樋口一葉を記念して文学碑が建てられることになった。大藤村は一葉の両親の出身地であり、一葉の本籍地でもある。彼女はかの地を訪れたことはないそうだが、樋口家先祖代々の墓のある土地だ。
 同年10月には文学碑の除幕式が盛大に行われ、地元の名士をはじめ、一葉の親族、馬場孤蝶戸川秋骨ら 『文學界』 関係者といったゆかりの人たちが集まった。
 と、ここへ現れたのが元県知事の阪本三郎。30年の時を経て、図らずも因縁の対決となったのである。

 序幕式が終わってから、大藤小学校における文芸講演会で、馬場や戸川が、「一葉女史に対しては姉に対するやうな気持でゐた」「一葉女史に対して、決して恋愛的感情は持ってゐなかった」と言ったことに対し、彼らが引き上げた後に、阪本三郎は演説を行い、「馬場孤蝶戸川秋骨二人の講師の発言内容には嘘がある」と切り出しました。

 そして「一葉の日記から見ると、彼等『文学界』同人の文学青年達は、いずれも一葉に対して特別の感情を抱いていたことは事実である」としました。

 そのことを伝え聞いた馬場や戸川は、それは「一葉の勘違いで、吾々の心持は」そうではなかったとして、阪本三郎が「この座へ現れたら袋叩きにする」と息巻きましたが、三郎は現れず「袋叩き」にされることはありませんでした。


 中萩原・慈雲寺の「一葉女史碑」 その最終回 - 鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

 馬場も戸川も当時50歳前後だから、まさか本気で袋叩きにしようなどと思わなかっただろうが、物凄い剣幕である。(それにしても、この連中いたる所に出没している気がする。)そもそも、どこまでが本当の話なのかよくわからないし、誇張されて伝わっている感もあるのだが、せっかくだから袋叩きにしてしまえばよかったのにと思う。

*1:一葉の本名。奈津とも書く。

*2:一葉の次兄。素行不良のため勘当された。このため、長兄が早世した後、一葉が家督を相続している。

*3:「だいとうそん」じゃなくて「おおふじむら」。現在の山梨県甲州市