竹さん

 明け方のまだ薄暗い時間、洗面所で助手(看護婦)の組長の 《竹》 がしゃがみこんで、床を拭いている。(はっきり書かれていないが、喀血した患者の血液を拭いているのだと思う。)

「竹さん、さっき、」声が咽喉(のど)にひっからまる。喘(あえ)ぎ喘ぎ言った。「庭へ出た?」
「いいえ、」振り向いて僕を見て、少し笑い、「ぼんぼん、なにを寝呆けて言ってんのや。ああ、いやらし。裸足(はだし)やないか。」
 気がついてみると、いかにも僕は、はだしであった。あんまり興奮してやって来たので、草履をはくのを忘れていた。
「気のもめる子やな。足、お拭き。」
 竹さんは立ち上り、流しで雑巾(ぞうきん)をじゃぶじゃぶ洗い、それからその雑巾を持って僕の傍(そば)へ来てしゃがんで、僕の右の足裏も、左の足裏も、きゅっきゅと強くこするようにして拭いてくれた。足だけでなく、僕の心の奥の隅まで綺麗になったような気がした。あの奇妙な、おそろしい慾望も消えていた。僕は、足を拭いてもらいながら竹さんの肩に手を置いて、
「竹さん、これからも、甘えさせてや。」とわざと竹さんみたいな関西訛りで言ってみた。
「お淋しいやろなあ。」と竹さんは少しも笑わず、ひとりごとのように小声で言って、「さ、これ貸したげるさかいな、早く御不浄へ行って来て、おやすみ。」
 竹さんは自分のはいているスリッパを脱いで僕のほうにそろえて差し出した。


 太宰治パンドラの匣

 このエロティシズムはたまらない。手紙の相手である 《君》 は彼女に惚れてしまうし、この小説を読んでいる僕もくらくらする。