青べか馴らし
《私》 は近所の人たちから、《蒸気河岸の先生》 と呼ばれている。蒸気河岸というのは船着場のことで、そのあたりに住んでいるからだ。
おんぼろ小舟をまんまと売りつけられた先生は、高い代金を払って、青べかを修理する。しかし、青べかは 「まぬけなぶっくれ舟」 であり、子供たちから 「軽侮と嘲笑の的」 にされてしまう。
子供たちは毎日、青べかのところにやって来ては、石をぶつけたりひっくり返そうとしたりする。ある日、杭につないであった青べかがなくなってしまう。やつらが青べかを流したのだ。
翌日になって、船頭をやっている近所の青年が青べかを見つけ、曳いてきてくれる。
「おい」と私は彼女に云った、「ひどいめにあったな。これで終ってくれればいいがね」
私の心にあたたかな愛情がわきあがった。そんなにもぶざまな格好の、愚かしげなべか舟はほかにはない。そのために嘲笑され、憎まれているのだが、それはそんなふうに造った者が悪いので、彼女自身には責任のないことである。
《私》 の語る最初のセリフが上のものだ。しかも、青べかのことを 《彼女》 と呼んでいる。船は西洋の言語では女性名詞であるらしく、英語でも昔は she と呼びならわしたそうだが、これは極端である。
この後、青べかに 「ロジナンテ」 という文字をペンキで塗ったり(このカタカナ名前は子供たちから完全に無視される)、竿と櫂で漕ぎ出そうとして悪戦苦闘したり、舟の上で本を読みながら居眠りしたら沖へ流されたり、さまざまのことがあって、《蒸気河岸の先生》 と子供たちのつきあいは続くのである。
ところで、青べかについて検索していたら、次のような記事を見つけた。
郷土史研究家は興味ある話をしてくれた。
周五郎が描いた芳爺や世間話好きな人達が、今の浦安にもいる。青べかは「べか舟」ではなく人糞を運ぶ「伝馬舟(てんません)」であったと、言われている。など、など。
(中略)
浦粕に住み着いた先生が芳爺のたくらみで買わされた「青べか」が「伝馬舟」であったことは、噂好きの住民達、「青べか」を悪餓鬼から守った「長」も一言も触れていない。
(中略)
浦安の誰もが「青べか」に愛着を持った先生には知らせないようにしていたのかもしれない。先生だけが知らなかった。
まったく、とんでもない話である。